日本歴史地名大系 「久々茂土居跡」の解説
久々茂土居跡
くくもどいあと
中世益田氏関係のものと推定される居館跡。益田川に突き出した舌状丘陵の先端部に位置し、約一町四方に及ぶ土居地名が残る。館跡の周囲を取囲むように合せて六基とも七基ともいわれる五輪塔や宝篋印塔が分布する。とくに注目されるのは館跡の北側に隣接する、二段の石積みからなる通称土井殿の墓とよばれる積石塚で、そこにある五輪塔を含め、この古墓は南北朝期までさかのぼると推定される。近年の発掘調査の結果によると、この居館の成立は南北朝期の一四世紀中頃で、一五世紀中頃にはおもな機能を果し終えたと考えられる。永和二年(一三七六)四月二二日、およびそれから間もなく作成されたと推定される益田本郷御年貢并田数目録帳(益田家文書)と益田本郷田数注文(同文書)、あるいは永徳三年(一三八三)八月一〇日の益田祥兼置文(同文書)などからうかがわれる、益田本郷の再編成の様子とその支配体制のあり方などを念頭において考えると、永徳三年に新しく久々茂を与えられた祥兼(兼見)の次男兼弘がここに拠点を構え、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報