益田本郷(読み)ますだほんごう

日本歴史地名大系 「益田本郷」の解説

益田本郷
ますだほんごう

現益田市東部から現美濃郡美都みと町北西部に及ぶ地域に位置した、益田庄を構成する内部の単位所領。本郷・益田郷ともいう。建仁三年(一二〇三)一二月日の益田兼季申状案(益田家文書)によれば、兼季の父兼恒の相伝所領に対する安堵の下文を求めたなかに益田庄があり、これを構成する内部の所領として、納田なつた郷・井村いのむら(現三隅町)弥富やとみ名と並んで益田郷がみえる。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文にも、乙吉おとよしを加えた納田郷などとともに「ほんかう 九十一丁七反六十歩」がみえる。石見国衙の在庁官人藤原(益田)氏が、古代の益田郷・山前やまさき郷などの開発を通じて領有権を認められ、のち益田氏が総括責任者となり、乙吉氏など益田氏一族とも協力して藤原摂関家に共同で所領を寄進し、益田庄を成立させたと考えられる。益田本郷は益田庄の最も中心的な部分をなすと同時に、益田氏所領の中核、および益田氏による地域支配の拠点としてとりわけ重要な位置を占めていた。しかし鎌倉期には一時益田氏の手を放れ、石見国守護北条氏の所領(守護領)に組込まれたと推測される。永仁七年(一二九九)四月二四日の六波羅下知状案(益田家譜録)において、乙吉村地頭道祐の訴えている田地・狩倉以下のことにつき、陳状を提出するよう「益田本郷地頭代」に命が出されていて、ここにいう「地頭代」が益田氏をさすと考えられるからである。益田本郷が再び益田氏の手に戻ったのは南北朝期で、建武二年(一三三五)二月一二日の後醍醐天皇綸旨(益田家文書)において、「益田小石見両郷」は「津毛疋見両別符」とともに益田氏の本領だとして益田氏の領有が認められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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