日本歴史地名大系 「久徳村」の解説 久徳村きゆうとくむら 岐阜県:大垣市旧多藝郡・不破郡地区久徳村[現在地名]大垣市久徳町杭瀬(くいせ)川右岸、静里(しずさと)輪中の中東部に位置し、南は徳光(とくみつ)村。村内を美濃路が通り、久得とも記す。中世には尼寺(あまでら)庄のうちの郷名で、同庄を伝領した冷泉教房の室円道尼は、正嘉二年(一二五八)久得郷を子の教頼に譲っている。弘安九年(一二八六)三月に教頼はその室中院禅尼に当郷を一期分として譲り、次いで子の教定に譲られている(「教頼譲状案」信濃正村正享氏文書・年月日未詳「某申状案」壬生家文書)。康応元年(一三八九)六月二七日に山科教言に当郷の一円知行が認められており(「足利義満御教書案」山科家古文書)、応永一六年(一四〇九)には年貢一八石四斗・大豆一石六斗が山科家に上納されている(「教言卿記」同年一一月一九日条)。 久徳村きゆうとくむら 滋賀県:犬上郡多賀町久徳村[現在地名]多賀町久徳八重練(やえねり)村の西、多賀村の北にあり、芹(せり)川の扇状地上にある。元亀元年(一五七〇)六月二六日織田信長は久徳左近兵衛尉に多賀庄・石灰(いしはい)庄および敏満(びんまん)寺領の諸入免をもって三千石を与えた(「織田信長黒印状」集古文書)。久徳氏は久徳村在名の武士で、天正一一年(一五八三)八月一日の羽柴秀吉判物(同文書)では、同人は多賀庄で三千石を与えられている。なお元亀三年三月一七日の浅井長政知行安堵状(島記録)によれば、「久徳跡職之事」などが今井小法師丸に与えられている。慶長七年(一六〇二)の検地により田四六町八反余で六七三石余、畑屋敷合せて三町六反余で二一三石余、分米七〇七石余とある(久徳共有文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by