西本願寺(読み)ニシホンガンジ

デジタル大辞泉 「西本願寺」の意味・読み・例文・類語

にし‐ほんがんじ〔‐ホングワンジ〕【西本願寺】

浄土真宗本願寺派の本山である本願寺の通称。→本願寺

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精選版 日本国語大辞典 「西本願寺」の意味・読み・例文・類語

にし‐ほんがんじ‥ホングヮンジ【西本願寺】

  1. 京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山、本願寺の通称。真宗大谷派の本山の本願寺を、東本願寺と呼ぶのに対する。

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日本歴史地名大系 「西本願寺」の解説

西本願寺
にしほんがんじ

[現在地名]下京区門前町

七条堀川ほりかわの北に位置する。正面は東向きで堀川通に面し、背面西は大宮おおみや通、南は北小路きたこうじ通を隔てて興正こうしよう寺・龍谷りゆうこく大学大宮学舎、北は花屋町はなやちよう通を隔ててもとの本圀ほんこく寺境内(現西本願寺新境内地)に接する。敷地東西三三〇メートル、南北二九〇メートルで、正面に堀を設け、北に阿弥陀堂門(本堂門)、南に御影堂門が並び立つ。浄土真宗本願寺派本山。本尊阿弥陀如来。正式には本願寺という。慶長七年(一六〇二)一一代顕如の嫡男教如が六条烏丸からすまに東本願寺を開創したのに対し、当寺を西本願寺と称する。平成六年(一九九四)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔本願寺の成立〕

本願寺の起源は、弘長二年(一二六二)親鸞が没し、鳥辺野とりべのの北の大谷おおたに(現京都市東山区)に納骨されたのを、親鸞の娘覚信尼が文永九年(一二七二)吉水よしみず(現同区)の北の辺りに改葬し、仏閣を造営して親鸞像を安置した大谷廟堂に始まる(親鸞聖人伝絵)。本願寺文書における本願寺の寺号初見は元亨元年(一三二一)二月日の本願寺親鸞上人門弟等愁申状である。それより以前、正和元年(一三一二)法智の発起により廟堂に「専修寺」の額を掲げるも山門の抗議により撤去し(存覚上人一期記)、さらに詳細は不明ながら弘安一〇年(一二八七)八月二九日の三尊寺本願寺敷地境界契状(専修寺文書)にはすでに「本願寺」の寺号がみえている。寛正六年(一四六五)比叡山延暦寺の僧徒は東山大谷を奇襲し、堂舎を破却。本願寺八代蓮如は近江金森かねがもり(現滋賀県守山市)から越前吉崎よしさき(現福井県金津町)へ、さらには摂河泉へと居所を移し、文明一二年(一四八〇)山科野村やましなのむら(現京都市山科区)に本願寺を建立した。本願寺教団を一大勢力に確立したのは蓮如で、中興の祖とよばれる。総計二〇〇余通に及ぶ御文章(御文)によって文書伝道を行い、自らも積極的に教化を行うとともに教説の平易化に努め、二七人の子女をして寺院を開創するなどして地方教線の拠点とし、教団の骨格を形成した。さらに文明一三年(一四八一)には京都の仏光ぶつこう寺経豪(反古裏書)、同一四年頃には越前の出雲路派亳摂ごうしよう寺善鎮(同書)、明応二年には近江木部錦織きべきんしよく寺勝慧などの、真宗諸派が蓮如に帰参して(同書)、急激に拡充した教団の勢力は、逆に戦国大名や旧仏教教団に対して一向一揆を起こす結果ともなった。

天文元年(一五三二)山科本願寺は六角定頼・日蓮宗徒の来攻で焼亡し(私心記)、「荘厳只如仏国(「二水記」享禄五年八月一一日条)といわれた伽藍、また坊舎・在家は灰燼と化した。

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百科事典マイペディア 「西本願寺」の意味・わかりやすい解説

西本願寺【にしほんがんじ】

京都市下京区堀川通り六条にある浄土真宗本願寺派本山。大谷派に対し本派,東本願寺に対し〈お西〉と通称。山号は龍谷山。1272年親鸞の娘覚信尼が東山大谷に御影堂を開創し,亀山天皇から〈久遠実成阿弥陀本願寺〉の寺号を賜ったのに起源。親鸞を1世とし,3世覚如,8世蓮如により教勢を拡大。1532年山科本願寺が日蓮宗徒によって焼かれたので,10世証如は大坂石山本願寺大坂御坊)に移ったが,11世顕如の時,織田信長と戦い,紀伊鷺森(さぎのもり)に移った。1591年豊臣秀吉は京都堀河に寺地を寄進し,12世准如が造営に当たった。別に1602年徳川家康は顕如の長子教如に寺地を与え,東本願寺を創立させたため,西本願寺として対立することになった。西本願寺のプランは真宗建築の典型とされ,大師堂(御影堂),本堂は江戸時代の代表的建築。唐門と書院は伏見城の遺構と伝えられ,書院(対面所・白書院)は狩野了慶の障壁画と華麗な透彫のある欄間で有名。ほかに飛雲閣,数寄屋風の黒書院,現存最古の能舞台がある。《三十六人集》等を所蔵。1994年世界文化遺産に登録。
→関連項目京都[市]古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市)酒井抱一島原下京[区]浄土真宗障壁画慕帰絵詞龍谷大学蓮如仮名法語渡辺了慶

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西本願寺」の意味・わかりやすい解説

西本願寺
にしほんがんじ

京都市下京(しもぎょう)区堀川花屋町にある浄土真宗本願寺派の本山。正称は本願寺。真宗大谷(おおたに)派の本山を通称東本願寺というのに対して西本願寺とよばれる。1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西本願寺」の意味・わかりやすい解説

西本願寺
にしほんがんじ

京都市下京区堀川通にある寺。浄土真宗本願寺派の本山。号は竜谷山,「お西」と通称される。真宗の開祖親鸞のために,その娘覚信尼が東山大谷に霊廟を建て,その肖像を安置した御影堂がこの寺の起源であるという。その後たびたびの戦乱により山科その他に移転したが,現在の寺は天正 19 (1591) 年に豊臣秀吉に土地の寄進を受けたのを起源とする。現存諸堂は,元和3 (1617) 年の大火災後に新築あるいは桃山城から移建したもの。御影堂,本堂,大師堂,大書院,飛雲閣などを擁し,多くの国宝,重要文化財を有する。

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旺文社日本史事典 三訂版 「西本願寺」の解説

西本願寺
にしほんがんじ

京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山
1591年,11世顕如 (けんによ) の次子准如 (じゆんによ) が豊臣秀吉の援助により再興。のち教如(顕如の長子)の東本願寺と真宗を二分し,現在に至る。大書院・唐門・飛雲閣は桃山建築の代表的遺構として名高い。

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デジタル大辞泉プラス 「西本願寺」の解説

西本願寺

京都府京都市下京区にある浄土真宗本願寺派本山の寺院、龍谷山本願寺の通称。地元では「お西」などとも呼ぶ。飛雲閣、北能舞台(いずれも国宝)など、多数の文化財を保有する。大書院庭園は特別名勝・史跡。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。

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改訂新版 世界大百科事典 「西本願寺」の意味・わかりやすい解説

西本願寺 (にしほんがんじ)

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事典・日本の観光資源 「西本願寺」の解説

西本願寺

(京都府京都市下京区)
東西両本願寺」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の西本願寺の言及

【浄土真宗】より

…この指摘は,浄土宗と真宗の間に大きな溝を作った。1774年(安永3)東西本願寺が宗名として浄土真宗の公称を幕府に上訴し,江戸増上寺がこれに反対し,いわゆる宗名事件となった。89年(寛政1)幕府は本願寺に旧称に復すよう命じ,さらに後,輪王寺宮の仲裁で宗名問題は三万日の御預けとなった。…

【本願寺】より

…京都市下京区にある浄土真宗の本山。七条堀川の西本願寺と七条烏丸の東本願寺の両寺がある。1262年(弘長2)親鸞が没すると東山大谷に簡素な墓所が設けられた。…

※「西本願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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