美濃路(読み)みのじ

日本歴史地名大系 「美濃路」の解説

美濃路
みのじ

江戸時代、中山道東海道を結ぶ五街道脇往還として道中奉行の配下に置かれていた道。駅次は七宿があった。「五駅便覧」によると東海道みや宿(現名古屋市熱田区)から一里半で名古屋宿(現中区)となり、この間の賃銭は本荷六〇文・軽尻四〇文・人足三〇文、二里で清洲きよす宿(現西春日井郡清洲町)となり同じく七八文・五〇文・四〇文、一里半で稲葉いなば宿(現稲沢市)となり六〇文・四〇文・三〇文、一里半で萩原はぎわら宿(現一宮市)となり六〇文・四〇文・三〇文、一里でおこし宿(現尾西市)となり四〇文・二六文・一九文、二里一七町二五間で木曾川を越した美濃墨俣すのまた宿(現岐阜県安八郡墨俣町)となり一一一文・七一文・五四文、二里五〇間で大垣おおがき宿(現岐阜県大垣市)となり八三文・五四文・四二文、二里半六町で中山道垂井たるい宿(現岐阜県不破郡垂井町)に着き、一〇二文・六五文・四九文とあり、全行程は一四里二四町一五間である。

平坦な土地を通るが木曾川(起渡)長良ながら(墨俣渡)揖斐いび(沢渡村渡)の三大河川のほか、庄内川・日光につこう川、小熊おぐま(現岐阜県)などがあり、川留もしばしばあった。東海道から美濃へ出て中山道に至る道は、鎌倉時代には東海道の一部とされていたが、江戸時代以前は河川の氾濫その他により、道路の改変もはなはだしかったと思われる。


美濃路
みのじ

江戸時代、中山道と東海道を結ぶ脇街道で、濃尾平野の西部を北西から南東に走る。美濃街道大垣街道ともいう。平安時代中期から美濃経由の通行が多くなり、源頼朝の上洛など鎌倉幕府が開かれると、京都と鎌倉との往来が激しくなり、いわゆる鎌倉街道の垂井たるい(現不破郡垂井町)赤坂あかさか墨俣すのまた(現安八郡墨俣町)黒田くろだ(現愛知県葉栗郡木曾川町)のルートが発達した。織田信長は天正三年(一五七五)清須きよす(現愛知県西春日井郡清洲町)を中心に京都への道を整備し、三六町ごとに一里塚を造らせ、並木松・柳などを植えさせた(武徳編年集成)豊臣秀吉も文禄三年(一五九四)京都から清須までの伝馬を定め、人馬の調達について朱印状を出している。

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改訂新版 世界大百科事典 「美濃路」の意味・わかりやすい解説

美濃路 (みのじ)

江戸時代,中山道の脇往還として道中奉行支配下に置かれていた街道。中山道垂井(たるい)宿から分岐して2里半6町で大垣宿,揖斐(いび)川の船渡しを経て2里50間で墨俣(すのまた)宿,長良川と木曾川の船渡しを経ておこし)宿へ2里17町25間,1里を経て萩原宿,1里半で稲葉宿,さらに1里半で清洲(きよす)宿,2里を経て名古屋宿,ここから東海道宮宿(熱田)へ1里半の7ヵ宿が美濃路の宿駅である。朝鮮通信使琉球使節,象,茶壺道中などのほか,近世初頭には将軍の上洛のさい多くはこの道を通り,重要路の一つであった。
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百科事典マイペディア 「美濃路」の意味・わかりやすい解説

美濃路【みのじ】

江戸時代,中山道脇街道で,道中奉行支配。中山道の垂井(たるい)宿で分岐して,大垣(おおがき)宿・墨俣(すのまた)宿,長良川・木曾川の舟渡しを経て,名古屋宿から東海道の宮(みや)宿に至る。初期には将軍の上洛路となり,また朝鮮通信使,茶壺道中などが利用した。
→関連項目宿村大概帳墨俣川の戦

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「美濃路」の意味・わかりやすい解説

美濃路
みのじ

東海道の熱田と中山道の垂井を結ぶ道路。名古屋市熱田区の宮の宿で東海道と分岐し,清州,稲葉 (稲沢市) ,萩原 (一宮市) ,起 (おこし。尾西市) ,墨俣 (すのまた。岐阜県) ,大垣 (岐阜県) の各宿を経て,中山道の垂井の宿に達する 14里 24町 (57.5km) の脇街道。東海道には宮の宿から桑名までの海上七里の渡しがあったが,船旅を嫌う人々や子供,または大部隊の行列 (参勤交替,琉球王使,朝鮮来聘使など) は,平坦地で距離的にも近い美濃路を利用したため本街道以上ににぎわった。徳川家康凱旋と天下統一にちなんで吉例街道ともいわれ,また東海道美濃路回り,中山道尾張回りとも呼ばれた。美濃街道とも表記し,また別名に近江路,起街道,墨俣街道があった。本街道並みに松並木,一里塚,宿駅制度が設けられ,いまも尾西市富田の一里塚や萩原,起などの町並みに宿場の面影を残している。

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事典・日本の観光資源 「美濃路」の解説

美濃路(名古屋、清洲、西枇杷島、新川)

(愛知県名古屋市・清須市)
遊歩百選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の美濃路の言及

【尾張国】より

…海上旅行になれぬ者のため宮宿から脇往還佐屋路宿が分かれ川下りで桑名に達した。中山道と東海道を結ぶ美濃路も宮宿から名古屋を通り起(おこし)宿で木曾川を越え美濃墨俣宿に至り垂井宿で中山道と結んだ。吉例街道ととなえ大通行の将軍上洛や朝鮮通信使,琉球使節の通行をはじめ13藩の参勤交代に利用された。…

【街道】より

…それらの管理は初期には代官また老中なども関与していたが,1659年(万治2)以降は道中奉行を置いて専管させた。道中奉行の管理下にあったのは,東海道(品川~京都・大坂),中山道(板橋~守山,次の草津で東海道となる),日光道中(千住~日光),奥州道中(宇都宮~白河),甲州道中(内藤新宿~上諏訪,次の下諏訪で中山道に結ぶ)の五街道のほか,東海道と中山道を結ぶ美濃路(熱田~垂井),東海道の脇街道というべき佐屋路(熱田~桑名),本坂通(浜松~御油または吉田),山崎通(伏見~山陽道の西宮),中山道と日光道中を結ぶ例幣使道(倉賀野~壬生(みぶ)通の楡木へ),日光道中の脇街道というべき日光御成道(岩淵~岩槻を経て日光道中の幸手へ),壬生(みぶ)通(日光道中の小山から分かれ,飯塚,壬生等を経て日光道中の今市へ)がある。また千住から新宿(にいじゆく)・八幡(やわた)・松戸を経る水戸佐倉道はこの3宿だけが道中奉行の管轄であった。…

【東海道】より

…しかし1185年(文治1),源頼朝が駅制を定めて京都・鎌倉間の交通路の整備をはかったので,交通路としての東海道は近江,美濃,尾張,三河,遠江,駿河,伊豆,相模を通過するこの幹線道路をさすようになった。この道を平安時代,すなわち《延喜式》に記載された東海道と比較すると,まず鈴鹿峠を越える伊勢路が,関ヶ原を越える美濃路に変更されていること,また足柄峠を越えたのち相模国府(海老名(えびな)市)より武蔵国府(府中市)にむかって内陸部を進んでいた道が,海岸沿いに鎌倉へ直行するようになったこと,さらにより鎌倉への近道となる芦ノ湖南岸の箱根路,湯坂道が,従来の北の足柄道と同等に利用,整備されるようになったこと等がおもなちがいである。室町時代の京都・鎌倉間は《大乗院日記目録》(応仁2年(1468)12月15日条)によれば,その間120余里,63宿ある。…

※「美濃路」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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