朝日日本歴史人物事典 「久米栄左衛門」の解説
久米栄左衛門
生年:安永9(1780)
江戸時代後期の科学者,造兵家。讃岐国(香川県)の坂出大浜塩田の開発者。諱 は通賢。讃岐引田郷馬宿村(香川県引田町)の船舵作り職人の子として生まれる。7歳で時計の分解修理をしてその才覚をあらわす。19歳のころに大坂に出て間重富に数学および天文学を学ぶ。測量器を製作し,また観測技術にもたけ,高松藩の天文測量方となる。文化5(1808)年,伊能忠敬が全国測量の一環として讃岐を訪れた際には,その案内役を務め,測量の一部を担当した。 坂出東・西大浜115町歩,付随の畑110町歩の干拓工事は,その的確な測量,設計技術によって一挙に4年間で行われ,文政12(1829)年に完成した。財源は親戚などの援助を受けた。『高松藩記』によれば「入費総計二万余両,釜屋七十軒,産塩三十万俵余,諸上納金千八百両余,畑九十七町余此貢米三百九十七石余,一ケ年総収納高平均三千両,内千両許年中諸入費,其余二千両余御益金」,また塩は質もよく,多く尾州廻船により江戸へ回送したとある。<著作>『経済元録』(坂出町・鎌田博物館蔵)<参考文献>香川県女子師範学校編『塩田研究』廣山堯道 一方,文化4年のロシアの択捉島侵攻などに刺激されて海防問題に関心を持つようになり,火器を備えた軍艦の設計と海上戦術を述べた「戦船作積覚」を発表しており,また銃砲の研究に力を入れ,従来の火縄銃に代えて連続火花によって点火する鋼輪仕掛けの輪燧佩銃をはじめドンドロ付け木(マッチ)にヒントを得た雷管式の生火銃,鎗間銃などを考案したほか,蓄気式の空気銃まで製作している。晩年には牛を動力とする揚水機や精米機を工夫したりもしている。坂出塩田の基礎を確立して,郷里の産業振興に大きな功績を残した。<参考文献>岡田唯吉『讃岐偉人久米栄左衛門』,豊沢豊雄他『久米栄左衛門』
(所荘吉)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報