産業の振興と物産の繁殖を通じて,富国強兵をめざす〈殖産興業〉の思想は,維新政府の政策をつらぬく顕著な経済思想のひとつであった。しかしその端緒はすでに,開港前後の幕府,諸藩の政策のなかにあらわれていた。たとえば鹿児島藩では1830-40年代(天保・弘化期)の藩政改革ののち,集成館の造船・造機工場や洋式綿糸紡績所などの操業が開始され,諸藩や幕府でも反射炉,溶鉱炉,造船所の建設や国産振興,専売制度,交易拡大などの政策が,緊迫した内外の政局のなかで積極的に進められた。諸藩の産物会所や幕府の神戸商社(1867年設立)のほか,佐賀藩,鹿児島藩,水戸藩,盛岡藩,韮山代官所などの反射炉や溶鉱炉,長崎,横浜,横須賀の幕営製鉄所(造船・造機工場),鹿児島紡績所と奄美の製糖工場(鹿児島藩)などは,その代表的な例である。それらはいずれも政策主体(幕府,諸藩)の危機意識に基づいて幕営ないし藩営企業として設立され,また多くの場合,製鉄,造船,造機などの軍事部門を含んでいた。開港前後の産業政策はこうした点で,商品経済への対応に終始した旧来の勧農政策と大きく異なっている。
列強対峙のもとで急速な富国強兵をめざした維新政府も,産業振興と物産繁殖に強い関心を寄せ,多額の財政資金をこれに投下した。しかし当初の政策は開港後の幕府,諸藩と同様,重要産業に対する強い直営主義を基調とするものであった。このような直営政策は,幕府から接収した長崎,横浜,横須賀の各製鉄所の経営や,生野,佐渡の鉱山などの再開発に始まった。なかでも鉱山の開発は1869年(明治2)初頭の生野鉱山の官営以来にわかに活発化し,貨幣材料の金・銀・銅鉱を中心に全国的な資源調査と採掘が進められた。そして同年末までに鉱山司生野出張所,同佐渡支庁,同小坂支庁などが相次いで開設された。鉱山と並んで重要な地位を占めた鉄道も,69年12月の廟議決定以来,官設・官営を基本方針として建設が進められた。しかし当初の性格は産業鉄道というより,東西両京間を連結し政治的統一を進めるといった,政治的色彩の強いものであった。89年6月に竣工した横須賀線の場合も,陸海軍大臣の要請によって横須賀軍港および周辺要塞への輸送線として急きょ建設された,軍事的色彩の強いものであった。鉱山,鉄道を中心とするこのような官営事業は,1870年閏10月の工部省設置によってさらに拡充された。同省は〈百工勧奨ノコトヲ掌リ,兼テ鉱山,製鉄,灯明台,鉄道,伝信機等ノ事ヲ管ス〉(《工部省沿革報告》)という建省の精神に沿って,民間工業の勧奨のほか,重要産業の直営を目的として設置されたものであり,その直営事業は当時の日本の鉱工業のなかでとびぬけた地位を占めることになった。事実,73年末現在の事業所数は,電信,鉄道をはじめ,長崎,兵庫,赤羽の各製作所,佐渡,生野,三池,大葛,小坂の各鉱山など多数にのぼり,投下された財政資金も1870年11月~73年12月の間に1137万円余(同期間歳入総額の8%)に及んだ。そのうえ73年11月に新設された内務省も,民業育成という新しい見地に立って各種の工場や試験場(富岡製糸場,堺紡績所,内藤新宿試験場,下総牧羊場など)を継承ないし新設し,また北海道開拓使(1869年8月設置)も75年ころから農牧場や工場(真駒内牧牛場,札幌緬羊場,札幌麦酒醸造所など)を相次いで開設した。その結果70年代末には,工部省系の鉱山,鉄道,造船所などの大企業群のほか,内務省,開拓使の経営する多数の模範工場や農牧場,試験場が各地に出現することになったのである。
これらの官業は,工部省事業をはじめとして欠損を続けるものが多く,官業特有の非能率もめだった。そのため廃藩後の財政窮乏のなかで早くから大蔵当局の批判の的となったが,岩倉使節団の帰国後は,民業育成の見地から工部省事業に対する批判がさらに強まった。あらたに開設された内務省の模範官業も日本の実情に合わず,無用な誘導と干渉の弊害を露呈することになった。また1874年1月の民撰議院設立建白書の提出以来,年を追って高まった自由民権運動の側からも,干渉と浪費に対する批判が強くなった。このような状況のなかで,官業を中心とした殖産興業政策の転換を強く迫ったのは,約1年分の歳出に相当した西南戦争の戦費と政府財政の逼迫(ひつぱく)であった。そのうえ,応急の戦費をまかなうため余儀なくされた予備紙幣の繰替発行(2700万円)と第十五国立銀行からの借入れ(1500万円)は,流通紙幣量を一挙に増加させ,インフレーションを促進した。そのため政府は80年秋から政府紙幣の整理に本格的に取り組み,増税や一部経費の府県への振替えなどによって歳出余剰の捻出に努めるとともに,別に〈工場払下概則〉を定め(11月5日),〈工業勧誘ノ為メ政府ニ於テ設置シタル工場〉を,漸次民間に払い下げることになった。これにともなって81年4月,農商管理事務の統一のため農商務省が設置され,内務省所管の直営事業所をすべて引き継いだ。また開拓使の直営事業所も,同使の廃止(1882年2月)にともなって大部分同省の所管となったが,86年1月に北海道庁が設置されたため,改めて同庁に移管された。
〈工場払下概則〉に基づいて,〈工業勧誘ノ為メ〉の工場を払い下げようとした政府の方針は,営業資本金の即時上納などのきびしい条件のため不首尾に終わり,その撤廃(1884年10月)と払下げ条件の大幅な緩和をまってはじめて可能となった。その結果,政府直営事業は84年以降,郵便,電信,鉄道,軍工厰などの中枢部門を除いて,相次いで有力な商人や経営者(三井,三菱,浅野,西村,久原,古河,大倉,川崎など)へ払い下げられることになった。払下げ条件は紙幣整理後の政府財政の好転を反映して,大部分が投下資本をはるかに下回る低価・長期分割払いであった。以上のように重要産業の直営を中心として発足した政府の殖産興業政策は,1874年ころからしだいに官業抑止,民業育成への傾斜を強め,80年11月の〈工場払下概則〉によって全面的な転換に踏み切ったのである。中枢戦略部門を除く一般官業の払下げ方針が確定したほか,官設・官営を原則とした鉄道の民設・民営も認可されることになった(1881年11月,日本鉄道会社創立)。
このような政策転換の直接の動機は,財政資金の不足とりわけ西南戦争後の政府財政の窮迫である。しかし根本的な要因は,富強への道を官業の拡充に求めた初期の経済思想が,これを民富に求める新しい経済思想によって,取って代わられたためであった。このような新しい経済思想は,欧米回覧や印刷物などを通じて朝野に流入し,1873年から75年ころにかけて提出された井上馨,渋沢栄一,大久保利通,大隈重信らの建議にもあらわれていた。そしてこれにともなって〈民産ノ厚殖〉や〈民業ノ振励〉をはかる内務省系の模範官業や,博覧会,共進会,農談会などの開催に政策の重点が移ることになった。しかしこの時期の民業育成は,郵便汽船三菱会社や日本鉄道会社に対する助成--前者の場合は政府保有船舶13隻のほか,1875年から84年までの10年間に同期間政府歳入総額の0.37%に当たる253万円余の助成,後者の場合は毎線区工事落成まで払込資本金の8%の利子給付,営業開始後は同じく純益8%に達するまでの利益補給など--のように,特定企業の特別助成の色彩が強く,一般民業はかえって紙幣整理にともなう深刻な不況や道路建設などの負担のため,没落したものも多かった。直営政策の放棄は,民業の一般的助成ではなく,特定資本の特別助成とこれを軸にした工業化に帰結したのであった。
執筆者:山本 弘文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新