船を安全に出入り,停泊させ人や貨物などの水陸輸送の転換を行う機能をもつ沿岸域の空間。日本では古来,津(つ),湊(みなと),泊(とまり)などと称していた。これらの語に代わって新たに港湾ということばがつくられ用いられるようになったのは明治になってからである。厳密にいえば,港湾とは港湾法の適用を受けるもののみを指し,漁港法の適用を受ける漁港とは区別されている。港湾という語句はいわば法的な用語であるが,慣用的には港湾と漁港を併せて港(みなと)と呼ぶことが多く,したがって港湾は港の概念に含まれているといえる。
水運が非常に早くから発達していたこともあって,港の出現もかなり古くまでさかのぼることができる。例えば地中海東部からエーゲ海,アドリア海へと発達した古代都市国家は,港を中核に各地に勢力を広げていった。フェニキアのテュロス,シドンでは,前2500年ころ人工の港を中心に港湾都市が形成されたといわれる。また湾口のファロス島に築かれた巨大な灯台で有名なエジプトのアレクサンドリアの港の完成も前300~200年ころと推定される。東西の交通が盛んとなった中世では,イタリアのベネチア,ジェノバが海陸東西交通の接点として,港を中心に繁栄するとともに覇権を競い,また北方では封建国家体制に抵抗して,ハンブルク,ブレーメン,リューベックなど,ハンザ同盟による都市群が形成され,港湾都市として繁栄した。これらの港では今でも関税の徴されない自由港区を残している自由港として知られている。ヨーロッパのおもな港湾都市はそのほとんどが中世までに形成されており,港は貿易を通じてその地域を繁栄させ,大航海時代の幕あけとともにその根拠地となり,さらに新大陸の発見,移住,開発の拠点となったのである。
四面を海に囲まれ,山地の多い日本にあって,統治のための交通として水運が重視されたのはいうまでもない。《日本書紀》には崇神天皇が〈船は国の要用なり〉と勅したとあり,また《古事記》には仁徳天皇のとき住之江(現,大阪市)に津を定むとある。記紀の記述の真偽はともかく,大宰府の外港として那津(なのつ)(現,博多港),畿内の門戸として難波津(なにわづ)(現,大阪市上町台地周辺)が開かれ,さらに瀬戸内海の沿岸にいくつかの泊が整備され,これらを重要交通軸として国の内外の交流が盛んに行われ,日本の国が形成されていったことは確かである。
古代の海運は手こぎが主で,後に帆を併用するようになったといわれる。したがって風や潮の流れを巧みに利用することが必要で,そのため津,泊の位置の選定と整備が重要なこととなる。奈良時代には僧行基によって,いわゆる〈五泊〉が開かれ,瀬戸内海から明石海峡を通って淀川河口に達するまでに,檉生(現,室津),大輪田泊(和田岬付近),韓泊(現,的形。一説には福泊ともいわれる),魚住(現,江井島),河尻(淀川河口)の5ヵ所の泊の整備が行われた。また大輪田泊から難波津,住之江,そして堺までの地域は畿内の海上の門戸として重視され,この地域は津の国と称されたが,ここには国司はおかず,摂津職を任命して大宰府とともに直接国が管理した。
地方から中央への庸(よう),調,中男作物(ちゆうなんさくもつ)の輸送においても,当初は駅馬の制によることとしたものの,量の拡大に伴い,とくに米などの重量物の輸送はもっぱら水運に依存するようになり,10世紀の《延喜式》にも,豊前,肥前,肥後など陸路3日以内に大宰府に運べる九州の米は,那津より与渡津(現,淀)まで水路で運ばせ,また瀬戸内海沿岸,四国,紀伊,北陸の諸国でも水運を主とさせていたことが記録されている。これら諸国の沿岸,また琵琶湖岸では津,泊の整備が進み,大輪田などとくに重要なところには中央から造船瀬使(ぞうふなせし)を派遣して整備にあたらせることもあった。
一方,大陸へは当初は難波津を出発地とし,九州の坊津を経て向かっていたが,都が平安京に移ってからは大輪田から出るようになった。しかし,大輪田は泊程度の機能しかもっておらず,12世紀,平清盛はこの地を大陸との交易の拠点としての津にすべく,経ヶ島(その名は石の前面に一切経の経文を書いて沈めたことにちなむという)築島による大輪田修築を行い,その一方,政治,経済の中心地との直結をはかり,背後の福原に都を移そうとしたのである。一般に貿易港としての津は,他国との交流が繁しい一方,外敵の侵入や雑居の影響を受けやすい欠点があり,このため権威の集中する都宮は津から離れて置かれるのが通例であったことを考えると,福原遷都は短期間ではあったが,清盛の意図は近代の港湾の考え方に近いものであったといえる。
鎌倉時代初期には勧進僧往阿弥陀仏らにより,鎌倉の材木座に和賀江島が築港されて日宋貿易が行われたが,高波による防波堤破損のためその機能を失ってしまった。この例のように,一般に,沿岸に津,泊を築くことは,入江や深く湾入した水域以外容易でなく,古代,中世を通じて,河川沿い,あるいは河口に発達していったものがほとんどである。このような場所は,河川流域を背後地とすることで,産業,経済の中心地として発展する要因ももっていたのである。大坂はその典型的な例であり,16世紀,豊臣秀吉は淀川河口上町台地の北端に大坂城を築いてここを政治の中心とするとともに,河川の流下土砂のために機能を失ってしまっていた難波津に湊を整備し,堺の貿易商をこの地に移したが,以後,大坂は港湾都市として,そして経済・産業活動の一大中心地として発展を続けることができたのである。
近世,徳川幕府の鎖国政策は西洋との交易の窓口を長崎の出島に限定したが,藩米の大坂移送,大坂から諸国への諸物品の移送のため,沿岸の泊,湊の整備が進み,とくに日本海から関門海峡を経て大坂に至る西回りおよび日本海から津軽海峡を経て江戸に至る東回りの航路はよく発達し,沿岸の湊は海の宿場としても繁栄した。なお,この時代,土佐では野中兼山らによって河口の岩盤の入江を掘削して,津呂,手結,室戸の各港が整備されたが,これらは現在の掘込港湾の先駆ともいえるもので,藩の殖産に寄与したばかりでなく,技術史上も価値の高いものであった。
鎖国政策の転換とともに,1859年(安政6)の長崎,神奈川,箱館,67年(慶応3)の兵庫,翌年の新潟などいわゆる5港の開港となり,さらに大阪開市が勅許された。大型の蒸気船の登場によって港の整備も急を要したが,資金難で思うにまかせず,ほとんどが沖荷役に依存していた。
近代的な港湾の整備は73年以降,東北,北陸振興の一環として宮城県野蒜(のびる)港と福井県三国港(当時は坂井港)を国の修築事業としてとり上げたのに始まる。野蒜港は内務省御雇技師,オランダ人ファン・ドールンの計画・設計のもとに78年着工,背後の都市計画事業とともに第1期工事は81年に完成したが,84年の台風による高波のため東側防波堤が決壊,現在はその面影もない。横浜港を近代港湾とすべく,その第一歩の修築事業が行われたのは89年である。以後,この横浜と神戸,関門海峡(門司,下関),敦賀が国の第1種重要港湾として,また各府県に一つの割合で第2種重要港湾が指定され,国または府県の事業として近代港湾の修築が行われるようになった。第2次世界大戦後は〈港湾法〉の制定に伴い,貿易港として,また工業港として港湾の近代化が着実に進められ,港湾は日本経済の高度成長の基盤としての役割を果たすに至った。
→水運 →港町
執筆者:長尾 義三
港湾は,海上交通と陸上交通の結節点として,国内交通網の主要な一部門を形成するばかりでなく,海外交通網とも密接に結ばれている。港湾の基本的な働きは,この結節点として海上運送と陸上運送とを連携媒介するターミナル活動であり,海陸交通における人や貨物の流れを合理的に受け止める基礎施設として果たす役割が,港湾の基本的機能である。本来,運送という概念は,これに伴うターミナル活動もその中に含めたものである。もともとターミナル活動は,船舶,航空機,自動車,あるいは鉄道などによる運送活動を補完し,これに一体化されることによって,効率的な輸送を完成させる立場にある。海運に限らず,輸送の合理化は単に輸送機関の革新だけで達成できるものではない。これに接続する基礎施設のバランスのとれた発達を見て,初めて実現できるのである。とくに港湾能力によって合理化・近代化努力に制約を受ける船舶は,港湾と密接な相互依存関係にあり,両者の均衡のとれた発展を見て初めて所期の海上運送の合理化効果を実現できる。一方の近代化の遅れは,他方の経済効率を低め,また近代化しすぎることはみずからの過剰投資を意味するので,最適資源配分を達成できないことになる。近年の内外に見られる大規模な港湾投資はまさしくこうした根拠に基づくものであり,船舶の合理化,近代化が顕著であるほど港湾投資は大規模に要求される。船舶の大型化,専門化,高速化などは,これに対応した港湾施設および機能の合理化なり近代化があって,初めて経済的に妥当とされるのである。
交通における基礎施設としての港湾は,経済社会の高度化に伴う人および貨物流動の増加と船舶および海運の技術的進歩とによって,量的,質的に変化する。いいかえれば,港湾は港湾需要の拡大と船舶技術の進歩とを基本条件として発達するのである。この両面で目だった進展を見なかった第2次大戦前と戦後しばらくの時代,港湾は従来の伝統的な形態を続けてきた。つまり,これまでの港湾は,技術革新のテンポが緩慢であったことと,荷主産業の貿易取引単位が比較的小規模であったことから,港湾の大規模化,物資別専門埠頭(ふとう)化,荷主別専用埠頭化などの合理化,近代化があまり進まなかった。これが1950年代後半に入って世界の先進工業国が戦災の復興を成し遂げ,重化学工業を基幹とする飛躍的な経済の拡大発展とハイペースな技術革新との時代を迎えると,それまでの伝統的港湾形態は大きく変貌を遂げることとなった。まず,目覚ましい経済発展により経営規模を拡大し,大量の輸入原料や燃料資源を必要とするようになった第2次産業資本は,輸入資源の海上輸送費用の節減と安定を図るために,自己の生産部門の一部として合理的かつ近代的な自家専門埠頭の建設を推し進めたことにより,臨海工業地帯において埠頭の専門化および専用化と港湾の大規模化が急速に進んだ。そして埠頭の専門化,専用化と港湾の大規模化は,バルク・カーゴ(ばら積貨物)分野にとどまらず,やがて60年代後半のコンテナー化によってゼネラル・カーゴ(個品雑貨)分野にも波及し,定期船港湾でも埠頭ターミナルの専門化と専用化をもたらし,港湾規模を著しく拡大させた。
交通体系においてターミナルとしての役割を果たす港湾は,海運の発達と国内経済の発展とを媒体として発達するのであるが,この海運と港湾の発達はコンテナー化による国際貿易貨物の複合一貫輸送システムと,カーフェリーによる国内取引貨物の一貫輸送システムに見られるように,陸上輸送体系にも変革をもたらす。しかし,港湾の機能は,交通の基礎施設としてのそればかりではない。例えば,大量の輸入資源を消費するようになった第2次産業資本は,港湾機能を自己の生産過程に包摂することで,より割安な原燃料を確保するため臨海部に立地を求め,この結果,日本にその典型を見るように臨海工業地帯を形成してきた。このように,港湾は港湾機能を必要とする多くの産業の基盤形成と深くかかわりをもち,これを通じて港湾地域の開発とこれによる地域経済の発展を促す機能をもっているのである。そして,これがさらに港湾の周辺に人口と産業を集中させ,いわゆる港湾都市の形成を促進させるのである。日本の大都市のほとんどが重要港湾をもっていることは,このことでも裏づけられる。港湾は交通,生産,地域経済および社会の諸活動と深くかかわり,それを発展させる大きな力を発揮するのである。
日本の港湾法(1950制定)は,国民経済から見たその重要性に従って,〈重要港湾〉と〈地方港湾〉とに分類し,重要港湾のうち外国貿易を増進させるうえでとくに重要な港湾を〈特定重要港湾〉と指定している。また,地方港湾のうち,避難のための停泊を主たる目的とする港を〈避難港〉と指定している。ちなみに,港湾法に基づいて国が指定する港湾の数は1093港あり,特定重要港湾は18港,重要港湾は114港,地方港湾は961港をそれぞれ数える(1984年8月1日現在)。
日本の近代港湾の歴史的発展は,欧米主要港のように地域住民の代表者による自主的経営に基づく港湾相互の自由競争の結果としてではなく,開港の初めから国策によって推進されてきた。それが戦後の1950年に,港湾を国の営造物とするそれまでの中央集権的な思想から,港湾はその発展にもっとも身近な利害をもつ地域住民の意思を代表する港湾管理者によって自主的に経営されるべきであるとする発想の転換に基づいて,港湾の基本法ともいわれる港湾法が制定されたのである。港湾法が期待した港湾経営の主体としての〈港湾管理者〉は,ロンドン港庁やニューヨーク港庁の例にならった〈港務局(ポート・オーソリティ)〉であった。これは,地方公共団体が単独,または共同して設立する営利を目的としない公法上の法人である。しかし,この思想は組織的にも財政的にも日本の風土になじまず,結局,港務局という経営管理方式をとったのは四国の新居浜港のみで,ほとんどの港湾では地方公共団体が港湾管理者になっている。このほかに,地方自治法にいう〈地方公共団体の組合〉(一部事務組合)が港湾管理者になっている港が4港ある。
なお,港湾法は,新構想であるこの港湾管理者に関するほか,港湾の開発,利用および管理の方法についても規定している。
執筆者:織田 政夫
港湾は船が安全に出入り,停泊できることはもちろんであるが,近代港湾としてはさらに水陸の輸送交通を円滑に接続する機能をもつことが重要な条件となる。輸送交通は輸送機関の運行部分(リンク)と乗換え,積換えの行われる節に当たる部分(ノード)とが鎖状をなして構成されている。港は全体的に見ると船と陸上との間のノードであるが,このノードは,例えば船と荷役用のはしけ,はしけと陸上との間というように,さらにリンクとノードから構成されている。輸送に時間と費用がかかるのはこのノードの部分である。ここで何回も旅客の乗換え,貨物の積換えが行われるからで,この部分を改善することによって輸送費,輸送時間は大幅に節約され,それだけ安く品物を手に入れることができ,市場の拡大も可能となる。そこで,輸送経路の短絡をはじめ,荷役の高速化,大量化,規準化などが求められる。輸送経路の短絡については,生産地,消費地に近い所に港湾を位置させるということであるが,これはむしろ港湾に隣接して工業地帯をつくり,都市をつくることによって達成される。このため,かつては岬の陰や入江など,自然の地形によって水面の静穏が保たれる場所が天然の良港として重視されたが,近代港湾では産業,経済などの中心地,あるいはその条件を備えた場所に,防波堤による静穏な広い水面を形成し,そこに各種機能を備えた施設を埋立てや陸地への掘込みを行うことなどによって築造することが根幹となっている。次に荷役の改善については,専用船の利用とそれに対応した専門埠頭,専用の荷役設備の整備,コンテナーを利用した海陸一貫の輸送システムの構築などが必要である。一方,港湾の位置する場所は生物の成育の場でもあり,景観のもっとも美しい空間の一つでもある。したがって自然の生態系と調和のとれた場をつくることも,近代港湾の重要な条件となっている。
→港湾荷役
一般に港湾は,船の出入りする航路および停泊するための泊地からなる水域施設,風・波を防ぐ防波堤や陸地を支える護岸などの外郭施設,埠頭・岸壁・桟橋などの船舶係留施設,道路や鉄道などの臨港交通施設,上屋・荷役機械などの荷さばき施設,倉庫・サイロ・貯木場などの保管施設を基本として構成されている。このほかにも旅客施設,船舶補給施設,廃油処理施設など多くの施設があり,これらの施設が合理的に配置されて初めて港湾としての機能を果たす。日本では〈港湾法〉により,水域が港湾区域として,また〈都市計画法〉,あるいは港湾管理者によって陸域は臨港地区として指定されることになっている。なお,臨港地区については,一つの港でもその利用形態によって漁業用の漁港区,主として内外貿易貨物の取扱いを行う商港区,工業生産に直結する原材料や製品を扱う工業港区など,いくつかの分区を指定することもできる。
河川の水路を利用して港をつくることは,古来から東西を問わず活発に行われてきた。欧米諸国では,ニューヨーク港,ロンドン港,アムステルダム港など,現在でも河川に面してつくられた港(河川港,河港という)が近代港湾として利用されている例が多いが,水深の深い大河もなく,また急流の多い日本の場合,河川港は近代港湾としては利用されなくなってきている。これに対し,河口は河川の利用による水運の便がよいほか水面も広く,また平地に恵まれて背後地も大きいため,日本でも古来から多くの港がつくられ,近代港湾へ発達していったものも多い。新潟港はその代表例であり,東京港,大阪港などもこうした河口港をその出発点としたものである。前述の欧米の河川港も河口に第2の港をもっている場合が多く,ロッテルダム港に対するオイロポート港,ブレーメン港に対するブレーマーハーフェン港など,その典型的な例である。
しかし,河口港では河川の流下土砂によって水深が浅くなる問題が生ずることもあり,航路の埋没によって大型船の利用がむずかしくなり,かつ維持のための浚渫(しゆんせつ)の費用が大きいことから,これらの流下土砂や,さらには山土を用いて沿岸に新たに埋立地を造成して近代港湾をつくる例が多くなってきている。このような港を埋立港湾と呼び,日本の大港湾,すなわち横浜,神戸,名古屋,千葉,堺泉北,北九州の諸港や,前述の東京港,大阪港もこの例に入る。埋立港湾は港の機能を十分に発揮できるよう,まったく人工的に港と都市,さらに工場用地を造成できる利点がある。ただし水深の深い所では埋立土砂量が多くなり,不利となってくる。一方,未利用の土地に人工的に水路を掘り込んで港をつくることも行われており,このような方式でつくられた港を掘込港湾という。大型船による浚渫技術と,高波による破壊,沿岸の漂砂による埋没に耐えうる防波堤および防潮堤などの築造技術の進歩に負うところが大きく,苫小牧,鹿島,新潟東,富山新港などがその例である。
港湾を建設,あるいは改良・復旧するための港湾工事は,一般に修築事業と呼ばれる。港湾は自然の地理的条件,地質,生態系を考慮して修築されるが,巨大な投資を要するので経済的な考えによって大きく左右される。しかし,港湾は沿岸域という,単なる陸域や水域とも異なる第3の国土空間であり,漁場,レクリエーションの場でもある。したがって,単に水面利用,また不足する陸地の延長として安易に埋立てを行うことは避けなければならない。日本では港湾工事は原則として港湾管理者がその計画を作成して実施するが,港湾計画を策定した段階で,重要港湾以上の港格をもつものは,地方ごとに設けられた地方港湾審議会の意見を聞かなければならないことになっており,さらに国の計画との整合性を保つため,国の港湾審議会への諮問の結果に基づき,必要に応じて運輸大臣からの変更の要請に応ずることになっている。
港湾工事は,防波堤などを築く外郭工事,泊地・航路などの水深を確保するための浚渫工事,港湾施設用の土地を造成する埋立工事などから構成されるが,水中,もしくは水上での作業が多く,技術的にも次のような特色がある。まず,時々刻々変動する波浪,潮流,潮位などの影響下で作業を進めなければならず,これらの変動の予測や,場合によってはこれらを有効に利用することも必要になる。例えば,干潮時に構造物の下部をつくることなどその例である。また,水中では視界が十分でないので,電波や音波を利用した位置測定が利用される。水上の建設現場で大型の重量構造物をつくるのは無理があるため,プレキャスト部材が多用される。この場合,浮力を利用できるので大型のケーソンでも比較的容易に施工場所まで運べるメリットがある。さらに,水上という特殊な条件下で大型の構造物を扱う作業であるから,機械化が必須である。この場合も浮力の利用によって船形式の大型の建設機械(クレーン船,浚渫船など)の利用が可能となる。さらに,このような技術的な面ばかりでなく,水域と陸域の重なり合っている部分につくられる港湾においては,広い分野にわたる知識と経験が当然必要とされる。
執筆者:長尾 義三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
人為的につくられた港の施設と、陸域・水域を含めた港の領域とを一体として総称する。港湾の開発、利用および管理は港湾管理者が行い、洋の東西を問わず地方自治体、管理組合、港務局などが管理者となっている。日本の港湾は1950年(昭和25)に制定された港湾法に基づいて運用されている。
[堀口孝男]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…河川沿岸に位置し,もっぱら内陸水路の交通にかかわる港。たとえ内陸の川のほとりにあっても,ロンドン,武漢,モントリオールなどのように海外の港と海上航路で結ばれているものは港湾seaportであって,河港とは呼ばれない。明治期以前の日本では河川が重要な輸送路になり,奥地からは米や薪炭などが平底の小さい川船で下航し,海岸からは塩や塩乾魚などが上航していた。…
※「港湾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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