江戸中期の天文暦学者。大坂の豪商の六男。幼名孫六郎、諱(いみな)は重富、字(あざな)は大業、号は長涯(ちょうがい)、耕雲主人(こううんしゅじん)ともいう。長兄たちの夭死(ようし)により、父の没後16歳で家督を相続、通称を十一屋五郎兵衛という。少年時代から天文儀器に関心があったようで、12歳で渾天儀(こんてんぎ)を模造して人を驚かしたという。後年多くの天文観測器を創案改良し、観測の精度を高めた。自家で工人をも養成した。30歳ごろ麻田剛立(ごうりゅう)に入門し、同門の高橋至時(よしとき)と暦算の研究に励んだが、重富の機知をもって『暦象考成後編』を入手すると、師弟3人はこれの研究に没頭した。1795年(寛政7)幕府に改暦の議がおこると徴されて改暦に参画し、2年後大任を果たした。改暦の功により名字帯刀を許され、帰坂後も天文方の待遇で自宅で観測を命ぜられた。1803年(享和3)至時が幕命により『ラランデ天文書』のオランダ語訳書を解読したが、業なかばで他界、その後、重富は至時の嗣子(しし)景保(かげやす)を助けて至時の遺業を続行するため1804年(文化1)再度出府、1809年帰坂するまで江戸にとどまった。帰坂後は奈良、京都に古尺取調べに回った。至時は、全国測量による日本地図の作製の一半を重富にも分担させるつもりであったが、重富が病にかかり測量を延ばしている間に、至時は死去し、その機を失った。重富は恵まれた才能と財力によって1800年前後に生きた大坂町人を代表する人物であったが、病気がちで文化(ぶんか)13年、61歳で没した。大阪市天王寺区茶臼山(ちゃうすやま)邦福(ほうふく)寺に葬る。
重富の長子重新(じゅうしん)(1786―1838)も優れた天文観測者であり、父とともに、またその後を継いで天文観測を続行し多くの記録を残した。
[渡辺敏夫]
江戸中期の天文学者,暦学者。大坂の長堀富田屋橋北詰にあった質商の六男として生まれたが,兄たちがみな早世したため16歳で羽間家を継いだ。大業を名のり長涯と号し,また屋号をとって十一屋五郎兵衛を称した。後,改暦の功により苗字帯刀を許されて間と改めた。中国在住の宣教師の手になる西洋天文学の漢訳本《暦象考成後編》は当時としては最新の暦学書であったが,民間人には入手困難のものであった。重富はその財とくふうによってこの書を入手し,師の麻田剛立,同門の高橋至時(よしとき)と3人で共同研究に努めこの難解な本をそしゃく,習得した。時代の水準を抜く学力を身につけた麻田一門の天文暦学は幕府の知るところとなり,1795年(寛政7)重富は至時とともに出府を命ぜられ寛政改暦に携わることになった。商人であったため天文方には任ぜられなかったが同格の待遇を受け,若くして没した高橋至時亡き後は,20歳で父のあとを継いだ高橋景保の補佐を幕府から命ぜられ,第一人者としての実力を認められていた。重富は機械工作の優れた天分をもち,日月食観測用の測食定分儀や精密な振子時計である垂揺球儀その他の製作によって観測精度を飛躍的に向上させた。その財力を用い自家に機工の職人を養成するなど技術面での功績も大きい。また測量の根本として日本の尺度の基準となるべき古尺の研究をし,測量についても伊能忠敬より重富を信頼していた至時は,全国測量のうち半分の西国は重富に託す予定であったが病身のため成らなかった。
執筆者:内田 正男
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(中山茂)
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1756.3.8~1816.3.24
江戸後期の天文暦学者。質商十一屋五郎兵衛の子。通称十一屋五郎兵衛,字は大業,号は長涯・耕雲。大坂生れ。1787年(天明7)麻田剛立(ごうりゅう)に入門。苦労の末「暦象考成後編」を入手し,剛立・高橋至時(よしとき)とともに研究した。95年(寛政7)幕命により至時とともに寛政改暦を行った。実測とともに天文振子時計や子午線観測装置などの観測器機を製作。著書「垂球精義」「天地二球用法記評説」「算法弧矢索隠」。
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…測量に際しては沿道の諸藩から多数の手伝人が差し出された。測量に用いた測器機は,高橋至時やその同僚の間(はざま)重富が漢籍から示唆を得て苦心を重ね,精密工まで養成して作製したものであったし,この測量によって得た緯度1゜の距離28.2里(地球を球として)は,現在からみてもかなり正確なものである。忠敬の業績は〈伊能図〉と呼ばれる地図および《輿地実測録》として編纂された。…
…没後の1755年(宝暦5)に採用された宝暦暦は,貞享暦の定数を少し変えただけの暦法で,施行後まもなくから幕府は次の改暦を考えねばならなかった。やがて大坂の麻田一門の名声が高くなると,幕府は95年麻田門下の俊秀高橋至時を天文方に登用し,同門の間(はざま)重富に協力させて改暦に当たらせた。至時は西洋天文学の漢訳本である《暦象考成後編》を参酌し,97年に早くも新暦案を完成,《暦法新書》8巻とし,土御門泰栄に献じた。…
※「間重富」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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