久米田村(読み)くめだむら

日本歴史地名大系 「久米田村」の解説

久米田村
くめだむら

[現在地名]吉見町久米田

久保田くぼた村の北西に位置し、北東は和名わな村。村域は吉見丘陵南東部の山裾とそれに続く低地に展開する。地内倭文しどり天神社(現久米田神社)供米田があったことから起きた地名と考えられている。「男衾三郎絵詞」では男衾三郎が「久目田の四郎の女」を娶っている。地内には元徳四年(一三三二)・天文八年(一五三九)などの板碑がある。小田原衆所領役帳では松山衆の吉村助五郎の所領に「吉見郡久米田之内」一〇貫文、江戸衆の豹徳軒の所領のうちに「廿三貫文 吉見郡久米川内領主如申辻」がみえる。

田園簿によると田高一千一〇一石余・畑高五一七石余、幕府領と旗本佐久間領の相給。日損水損場との注記があり、ほかに賢住けんじゆう寺領高一〇石があった。


久米田村
くめだむら

藤田とうだのうち久米田(藤田の飛地で加勢・平郡・下三財が交わる辺りに所在)を遺称地とする。建久図田帳には「久目田八丁」とあり、前斎院(後白河皇女式子内親王あるいは高倉皇女範子内親王か)領で預所は平郡へぐり庄地頭右馬助広時。また没官領地頭が宇都宮所衆信房とみえ、平安末期には平家の進退する所領であったことがわかる。公家系の花押が署判されている正元元年(一二五九)一一月二一日の某譲状(西福寺文書)には「平群本庄内久目田村」とみえ、当村四坪八町が某の息女鬼御前に譲られ、鬼御前は建治二年(一二七六)四月二一日「くめた四のつほ」を福寿御前に譲っている(「某譲状」西福寺文書)


久米田村
くまいでんむら

[現在地名]清水町久米田・卸団地おろしだんち

玉川たまがわ村の南、さかい川の右岸に位置し、同川を挟んで東は豆州平田ひらた(現三島市)、西は堂庭どうにわ村、南は戸田とだ村で、いずみ郷六ヵ村の一つ。永禄一二年(一五六九)四月二七日、北条氏は杉本八郎左衛門に「駿河領泉之郷」のうち「井領免」を与えている(「北条家朱印状」秋山文書)。この杉本家は当地に屋敷を構えており、「井領免」は地内の字入尾免にあたると考えられる。元禄一一年(一六九八)旗本秋山領となり、同領で幕末に至った(国立史料館本元禄郷帳・「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳など)。寛永改高附帳では高三四三石余(うち田三二二石余・畑一〇石余、ただし合計は合わない)


久米田村
くめたむら

[現在地名]中里町大沢内おおざわない

東は大沢内溜池に続き、北は大沢内村に接する。金木新田一八ヵ村の一つで、享保一二年(一七二七)の村位は下で免は四ツ成であった(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田方一八町五反一畝一一歩、畑方一二町八反三畝七歩、田畑屋敷合せて三一町三反四畝一八歩、村高一一二・六石、上田四反二畝七歩のほかは下々田で、他村に比較して畑地の多いのが目立つ。また「下々畑三拾五間 弐拾八間半三反三畝七歩 分米三斗三升弐合 宮建有之 広田伊門抱 是者弁才天社地故当分御年貢御免被仰付候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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