久野城跡(読み)くのじようあと

日本歴史地名大系 「久野城跡」の解説

久野城跡
くのじようあと

[現在地名]袋井市鷲巣 城跡

可睡かすい丘陵から南へ延びる宇刈うがり丘陵の先端に位置し、標高三四メートルの山頂本丸を中心に、丁字状に曲輪を配した城域約三万九〇〇〇平方メートルの平山城跡座王ざおう(蔵王城)とも。明応三年(一四九四)の今川氏の遠江侵攻に際して築かれたとみられる(静岡県の中世城館跡)。文亀元年(一五〇一)と推定される九月二六日の今川氏親判物(本間文書)に「蔵王城」とみえるが、これは当城とされる。この時の城主は久野佐渡守(宗隆)とみられ、信濃小笠原氏に攻められたが、福島助春配下の本間宗季が戦功をあげて、今川氏から賞されていた(永正七年三月二〇日「本間宗季軍忠状写」同文書)。永禄一一年(一五六八)四月、「久野ノ城主久野三郎左衛門尉宗能」は今川氏に反して徳川家康に味方している(家忠日記増補)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む