九日市村(読み)ここのかいちむら

日本歴史地名大系 「九日市村」の解説

九日市村
ここのかいちむら

[現在地名]神林村九日市

ひやつ川左岸にあり、南は牧目まきのめ村、北は今宿いまじゆく村に接する。永仁四年(一二九六)四月二〇日の小泉庄加納方下地中分状案(米沢市立図書館所蔵色部氏文書)に「九日市」の田として阿弥陀堂仏供田、白山神田など計四千三五〇束苅が記される。また九日市は「東西中堺、町中道、南北中堺、阿弥陀堂□路の南の垣のくねをすくに、東(へ)北の西角・南の東角、領家御方」と中分された。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分色部入逢九日市村」と記され、「本納合弐百八拾 縄ノ高合四百拾 家合弐拾参□」とある。


九日市村
ここのかいちむら

[現在地名]邑智町九日市

西流する沢谷さわだに川流域に位置し、西は片山かたやま村・千原ちはら村。北岸を通る銀山街道の継立場であった。中世には佐波さわ郷に含まれ、文明三年(一四七一)一一月一五日の赤穴幸清譲状(閥閲録)に「さわのかうのうちあらおさ、上ハいもとのしやうのまへのよこみち」とみえ、井元いもと(井本庄)と称されていた。南北朝期に佐波実連の次男常連に佐波本領の一部が譲与され、そのなかに井元が含まれている。譲与の対象となった佐波本領の一部は常連の嫡子掃部四郎顕清が早世したため、応永一三年(一四〇六)頃顕清の嫡子弘行に譲与されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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