銀山街道(読み)ぎんざんかいどう

日本歴史地名大系 「銀山街道」の解説

銀山街道
ぎんざんかいどう

石見国東部から奥出雲を経て備後国に至る陰陽連絡道。近世、幕府直轄の石見銀山で産出された銀・銅を備後尾道に輸送するのに用いた。石見銀山の本格的開発が始まるのは大永六年(一五二六)といわれ、当時石見を支配していた大内氏は石見銀山の外港として温泉ゆの(現温泉津町)を整備し、ここから西田にした(現同上)経由で降露ごうろ(降路坂、現大田市と温泉津町の境)を越えて石見銀山のある佐摩さま(現大田市)に至る道を開いたといわれ、享禄元年(一五二八)これを警備するため矢滝やたき(現同上)を設けた。その後、石見銀山の支配権は小笠原氏・尼子氏・毛利氏と移り、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後に徳川氏のものとなった。翌年初代銀山奉行(のちの大森代官)として大久保石見守長安が赴任し、温泉津大森おおもり(現大田市)間の道の整備に勤めたが、降露坂の険が難所であった。石見正保国絵図には「がうろ坂難所十九町」「冬ハ牛馬往還難成」とある。


銀山街道
ぎんざんかいどう

若松おお札之辻ふだのつじを起点に七日なぬか町・桂林寺けいりんじ町・赤井あかい丁・融通寺ゆつうじ町・柳原やなぎはら町を下って城下を出、ここから西進して下荒井しもあらい(現北会津村)逆瀬川さかせがわ(現新鶴村)を経て軽井沢かるいざわ銀山(現柳津町)から大谷おおたに村・間方まがた(現三島町)野尻のじり(現昭和村)布沢ふざわ(現只見町)を通って小林こばやし(現同上)に至る行程一八里の道のりで、若松から金山かねやま谷、伊南いな郷・伊北いほう郷とを最短距離で結ぶ幹線路で、伊南伊北街道ともよばれた。小林村からは六十里ろくじゆうり越・八十里はちじゆうり越を経て越後とも、沼田街道を通って上州とも往来でき、さらに駒止こまど峠・中山なかやま峠を経て下野街道とも通じた。寛永一〇年(一六三三)以降諸国巡見使の通行路に定められ、伊北越後街道の古町ふるまち(現伊南村)山口やまぐち(現南郷村)簗取やなとり(現只見町)に継いで、小林・布沢・野尻・間方・大谷、砂子原すなこはら(現柳津町)、軽井沢・逆瀬川・下荒井は街道の駅所となり、古町・布沢・野尻・大谷宿は定宿泊所に定められ、郷頭・名主らの役宅に仮本陣を置くのが通例となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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