亀ヶ岡城跡(読み)かめがおかじようあと

日本歴史地名大系 「亀ヶ岡城跡」の解説

亀ヶ岡城跡
かめがおかじようあと

[現在地名]木造町館岡

北の亀ヶ岡と南の大湯町おおゆまちを結ぶ道路の西側に大溜おおため池が広がり、道路から池の正面にみえる半島、通称「なかの崎」にある近世の平城跡。「津軽一統志」によれば、二代藩主津軽信枚が元和八年(一六二二)弘前城のほかに後の亀ヶ岡村・館岡たておか村を含む近江沢おうみのさわ築城を計画した。永禄日記館野越本(北畠氏蔵)によれば、名称の由来はこの地域は甕の形をした瀬戸物が昔から多く出土するためという。

東西約五〇〇メートル、南北約八〇メートルの規模で、空堀は幅約七メートル、深さ五メートル余に及ぶ。弘前城と同じく枡形構をとり本郭はほぼ方形で五五メートルずつあり、土塁は弘前城よりひと回り小さい。築城の目的は武備はもちろんであるが、信枚がここに隠居して津軽平野新田開発を促進することにあったという(釜萢雑談)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

4月1日の午前中に、罪のないうそをついて人をかついでも許されるという風習。また、4月1日のこと。あるいは、かつがれた人のこと。四月ばか。万愚節。《季 春》[補説]西洋もしくはインドに始まる風習で、日本...

エープリルフールの用語解説を読む