朝日日本歴史人物事典 「二階堂行村」の解説
二階堂行村
生年:久寿2(1155)
鎌倉幕府の吏僚。父は行政。正治2(1200)年に幕府の推挙で左衛門尉に任じられ,元久2(1205)年には上総国(千葉県)の奉行として狼藉追捕の件の取り調べに当たった。その後,広く侍所の検断奉行や永福寺の奉行,恩賞関係の奉行となり,さらに検非違使に任じられて山城判官と称される。建保1(1213)年5月の和田合戦では軍奉行となって,その勲功の調査などに当たり,乱後に相模国(神奈川県)の大井荘を恩賞として得る。こうして幕府の評定に参加することが多くなったが,将軍源実朝の申次としても活躍し,承久1(1219)年に隠岐守になったが,行村が奉行として行われた実朝の右大臣拝賀の儀式の直後に実朝が殺害される事件が起こって出家。法名を行西と称した。その後,承久の乱(1221)では鎌倉の留守を守るなど,常に幕府政治の中枢にあって,嘉禄1(1225)年に評定衆が置かれると,これに選ばれて幕府の安定化に努め,貞永式目の制定にも参加した。<参考文献>五味文彦『吾妻鏡の方法』
(五味文彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報