近衛天皇(読み)コノエテンノウ

デジタル大辞泉 「近衛天皇」の意味・読み・例文・類語

このえ‐てんのう〔コノヱテンワウ〕【近衛天皇】

[1139~1155]第76代天皇在位、1142~1155。鳥羽天皇の第9皇子。名は体仁なりひと。在位中は鳥羽法皇院政

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精選版 日本国語大辞典 「近衛天皇」の意味・読み・例文・類語

このえ‐てんのうコノヱテンワウ【近衛天皇】

  1. 第七六代天皇。鳥羽天皇の皇子。母は美福門院得子。名は体仁(なりひと)永治元年(一一四一)、三歳即位。在位一四年。その間、鳥羽上皇の院政が行なわれた。保延五~久寿二年(一一三九‐五五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近衛天皇」の意味・わかりやすい解説

近衛天皇
このえてんのう
(1139―1155)

平安後期の天皇(在位1141~55)。名は体仁(なりひと)。保延(ほうえん)5年8月15日生まれ。鳥羽(とば)天皇の第9皇子、母は藤原長実(ながざね)の娘美福門院(びふくもんいん)得子。父鳥羽上皇は白河法皇によって強引に即位させられた崇徳(すとく)天皇を排除するため、体仁を生後3か月で立太子させ3歳で皇位につけ、自身は出家して法皇となり専制政治を展開した。天皇が12歳で元服したのを機に、藤原忠通(ただみち)・頼長(よりなが)兄弟の間に立后の競争が行われ、頼長の養子多子が皇后に、忠通の養女呈子が中宮にそれぞれ擁立されたが、摂関家(せっかんけ)内部の対立は深まり、保元(ほうげん)の乱の遠因となった。久寿(きゅうじゅ)2年7月23日天皇が17歳で若死にすると、崇徳上皇藤原忠実(ただざね)・頼長父子らの呪詛(じゅそ)であるとの噂(うわさ)が流れた。墓は京都市伏見(ふしみ)区竹田内畑(たけだうちはた)町の安楽寿院南陵。

[川島茂裕]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近衛天皇」の解説

近衛天皇 このえてんのう

1139-1155 平安時代後期,第76代天皇。在位1142*-55。
保延(ほうえん)5年5月18日生まれ。鳥羽(とば)天皇の皇子。母は藤原得子(とくし)(美福門院)。異母兄崇徳(すとく)天皇の譲位をうけ,永治(えいじ)元年3歳で即位。在位中,父鳥羽上皇が院政をおこなう。久寿2年7月23日17歳で夭折。その死は呪詛(じゅそ)によるとの噂(うわさ)が流れた。墓所は安楽寿院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は体仁(なりひと)。
【格言など】虫の音の弱るのみかは過ぐる秋を惜む我が身ぞまづ消えぬべき(「玉葉和歌集」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近衛天皇」の意味・わかりやすい解説

近衛天皇
このえてんのう

[生]保延5(1139).5.18. 京都
[没]久寿2(1155).7.23. 京都
第 76代の天皇 (在位 1141~55) 。名は体仁 (なりひと) 。鳥羽天皇の皇子。母は皇后美福門院藤原得子 (贈左大臣藤原長実の娘) 。永治1 (41) 年践祚,次いで即位。在位の間,父鳥羽上皇が院政を行なった。陵墓は京都市伏見区竹田内畑町の安楽寿院南陵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「近衛天皇」の解説

近衛天皇
このえてんのう

1139.5.18~55.7.23

在位1141.12.7~55.7.23

鳥羽天皇の皇子。名は体仁(なりひと)。母は藤原長実の女美福門院得子。生後3カ月で立太子し,1141年(永治元)崇徳(すとく)天皇の譲位をうけて践祚した。父の鳥羽から嫡流となる望みを託されたが,皇子女のないままに17歳で死去した。

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367日誕生日大事典 「近衛天皇」の解説

近衛天皇 (このえてんのう)

生年月日:1139年5月18日
平安時代後期の第76代の天皇
1155年没

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