古代オリエントの民族名。カッシート人が初めて記録に現れるのは前1770年ころであるが,集団として言及されるのはバビロン第1王朝サムスイルナ王の治世7年(前1743)ころのことであろう。その後カッシート人は集団として初めはシッパルのあたりに,次いでユーフラテス川中流域に定着し,古バビロニア時代末ころにはテルカを中心とした地域にかなりの勢力を形づくった。そして後述するごとく,前16世紀初め,バビロンにカッシート王朝(バビロン第3王朝)を建て,まず北バビロニアを,次いで南バビロニアを支配下に収め,前1155年まで全バビロニアを支配した。カッシート人は王朝滅亡後も前9世紀ころまではバビロニアに住み,その後に興ったバビロン第4王朝(イシン第2王朝)下で高位の役人になる者も多くいた。前9世紀以後は,居住地が現在のイラン・イラク国境地帯の山岳部に限られていたが,カッシート人の歴史そのものはヘレニズム時代に至るまで続いた。
カッシート人の言語については,資料が固有名詞のほかはわずかな語彙集の類に限られているため不明な点が多く,カッシート語が何語族に属するのかさえ定かでない。前12~前9世紀の史料から,カッシート人社会が男系社会で,先祖の名を冠して〈何某の家〉と呼ばれる部族ないしは氏族から成り立っていたことがわかる。その成員はすべて〈何某の子〉と呼ばれ,〈家〉の長は〈家の主〉と呼ばれた。〈家〉はときには多くの耕地を共有し,それらが数村にわたっていることもあった。前1595年バビロン第1王朝がヒッタイトによって滅ぼされた後,バビロンはカッシート王朝の支配を受ける。バビロン王名表によると,カッシート王朝では合計36王が合わせて576年と9ヵ月支配したとされるが,実際にはバビロン第1王朝の末葉とカッシート王朝の最初の10余の王たちの治世が重なっていたとみられる。カッシート時代は〈暗黒時代〉と呼ばれることもあるが,とりわけ第1~14代の王たちの治世期間は史料が乏しく,暗黒時代と呼ばれるのにふさわしい。当初カッシート王朝の支配はバビロニア北部に限られていたが,この期間の後葉(前1475ころ)にバビロニア南部をも支配下に入れて,全バビロニア支配を完成する。第15~21代の王たち,なかでもカダシュマンエンリル1世(第18代?,在位,前1374-前1360)とブルナブリアシュ2世(第19代?,在位,前1359-前1333)の時代はアマルナ文書の時代に当たり,カッシート王朝下のバビロンはエジプト,ヒッタイト,ミタンニおよびアッシリアなどと肩を並べる勢力となっていた。クリガルズ2世(第22代)以下カシュティリアシュ4世(第28代)までの時代(前1332-前1225)は,王都ドゥル・クリガルズを中心に活発な商業活動がみられ,それを証する経済文書や書簡の類が多く残っている。その後,カッシート王朝は約9年(前1225-前1217)アッシリアの支配を受けるが,やがて独立を回復し,前1155年エラム人によって滅ぼされるまでさらに5代の支配が続いた。
カッシート人は,一般的にいって,言語,宗教,行政などの面で古バビロニア時代以来の伝統をそのまま受け継いだが,各年を年名によらずその時々の王の治世何年と呼ぶ方式が採用されたこと,それまでに伝えられていた文学作品の編さんや新しい作品(たとえば《ルドゥルル・ベル・ネーメキ》や《バビロニア神義論》など)の創作,カッシート時代以後一種の文語としてバビロニアばかりでなくアッシリアにおいても用いられるようになった〈標準バビロニア語〉の確立など,独自の貢献も少なくない。
→バビロニア
執筆者:中田 一郎
カッシート人はバビロニアを400年以上にわたって政治的に支配したが,その美術には見るべきものは少ない。ウルクのカラインダシュ神殿の壁面装飾(前14世紀)は,神像と特殊なモティーフを交互に配した煉瓦づくりの浮彫で,他には見られないユニークな作品である。また王都ドゥル・クリガルズの建築物,特に巨大なジッグラト(前15~前13世紀)は,建築史上注目される。ここからはテラコッタ製の小品(人物とライオンの頭部)も出土した。カッシート時代後期から,バビロニアではクドゥルkudurruと呼ばれる石彫品が作られるようになる。縦長の石材の表面に神々のシンボル(太陽,月,雷,または動物など),人物像などが浮彫で表され,さらに銘文が刻みつけられた。これは土地の所有権を主張するため境界に立てたもので,カッシート以後もさかんに作られた。
執筆者:松島 英子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
カッシート人はイラン方面からメソポタミアに移住した民族。カッシート語の語族は不詳。前1595年頃バビロン第1王朝滅亡後,バビロンに王朝を開き,以後400年の長きにわたり支配した。草創期のカッシートについては史料不足で不詳。クリガルズ1世は新都ドゥル・クリガルズを造営し,ジッグラトをつくった。前14世紀のアマルナ時代にはエジプト,ヒッタイト,ミタンニ,アッシリアと並んで5大強国の一つとして活発な外交関係を展開した。カッシート王朝はシュメール以来の多くの文字作品を後世に伝えるという重要な役割を果たし,クドゥッルと呼ばれる独特の境界石も多くつくられた。この王朝はエラムによって滅ぼされ(前1155年頃),イシン第2王朝に交代した。
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…こうしてウル第3王朝滅亡後に始まった長い古バビロニア時代も終わる。
[カッシート時代]
バビロン第1王朝の滅亡後,その遺産を受け継ぎ,後の時代に伝えたのは東方の山岳地帯からやってきたカッシートであった。カッシートのバビロニア支配は初め北部に限られていたが,前15世紀後葉からは南部にも及び,前12世紀半ばころまで全バビロニアを支配した。…
…ウル第3王朝の滅亡後,イシン・ラルサ時代,バビロン第1王朝時代を一般に〈古バビロニア時代〉(前20世紀初め~前16世紀初め)と称し,美術史的にも〈古バビロニア美術〉の呼称をこの時期に用いる。その後のいわゆる〈中期バビロニア時代〉に,この地はカッシートの支配を受け,次いでいくつかの王朝が興亡を繰り返したが,政治的混乱のあおりを受けて,美術的にはカッシート人による美術の遺品のほかはほとんど作品が伝えられていない。バビロン第1王朝の隆盛期以来,バビロンがつねにメソポタミア文化の中心地であり,当然多くの建築,彫刻,工芸等の芸術が栄えたはずであるが,その重要性のゆえにこの都市はたびたび攻撃の的とされ,破壊され,あるいは新しい都市計画のもとに大きくつくり変えられたために,多くの作品が失われてしまっている。…
…また当時,より南方には〈海国Sealand〉が存在した。以後王朝は北部バビロニアを基盤とするが,カッシート人(カッシート)などの圧力に苦しみ,前16世紀初頭ヒッタイトの攻撃を受けて滅亡した。 イシン・ラルサ時代からバビロン第1王朝時代にかけては各種の粘土板文書が多く残っているから,統治体制,司法制度,商業,土地制度,尼僧制などに関して,みるべき多くの研究成果がある。…
※「カッシート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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