第77代の天皇(在位1155~58)。名は雅仁(まさひと)。法名行真。鳥羽(とば)天皇の第4皇子。母は藤原公実(きんざね)の女(むすめ)璋子(しょうし)(待賢門院(たいけんもんいん))。大治(だいじ)2年9月11日誕生。1155年(久寿2)即位。58年(保元3)守仁(もりひと)親王(二条(にじょう)天皇)に譲位。以後69年(嘉応1)の出家のあとも、上皇・法皇として、没するまでの30年余りの間、二条、六条(ろくじょう)、高倉(たかくら)、安徳(あんとく)、後鳥羽(ごとば)天皇の5代にわたって院政を行った。
後白河天皇の即位は、異母弟の近衛(このえ)天皇が17歳の若さで没した後を受けて、29歳で即位するという異例のものであった。このとき鳥羽法皇は、寵姫(ちょうき)美福門院(びふくもんいん)(藤原得子)の猶子(ゆうし)となっていた守仁親王に皇位を伝えようとし、その手順として親王の父である後白河天皇を即位させたのである。このことは皇位継承についての崇徳(すとく)上皇の望みを完全に断つものであった。そのため翌1156年鳥羽法皇が没すると、崇徳上皇方と後白河天皇方との間に武力衝突が起こったが、天皇方は、源義朝(よしとも)、平清盛(きよもり)らの活躍で勝利を収めた(保元(ほうげん)の乱)。天皇は信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))を重用して政治を取り仕切らせ、乱後、新制七か条を制定し、記録所を設置して荘園(しょうえん)整理を行い、また寺社勢力の削減を図ろうとした。やがて親政3年にして天皇は守仁親王(二条天皇)に譲位し、上皇として院政を開始した。その翌59年(平治1)、信西に反感を抱く人々によるクーデターが起こった(平治(へいじ)の乱)。これは清盛の武力によって決着がつけられ、後白河上皇は主導権を握ることができなかった。こののち二条天皇も独自の立場を示して、かならずしも上皇の意のごとくにはならなかった。上皇は清盛を貴族社会に引き立ててその勢力を利用しようとしたが、やがて平氏の勢力が強大になると、今度は逆にその排除を企てるようになった。69年(嘉応1)出家して法皇となってからは、院近臣の強化、延暦(えんりゃく)寺や東大寺の僧兵の利用などにより清盛を除こうとした。77年(治承1)には、院近臣による平氏打倒の謀議が発覚、近臣数名が平氏によって処罰された(鹿ヶ谷(ししがたに)事件)。しかしその後も法皇は平氏追及の手を緩めず、摂関(せっかん)家に嫁していた清盛の女盛子が死ぬと、盛子の伝領していた摂関家領を没収し、また宮廷人事においても清盛の意向を無視したやり方を続けた。そのためついに79年11月、法皇は清盛によって鳥羽殿に幽閉された。しかし翌年には平家打倒を目ざして諸国の源氏が挙兵、以後、福原(ふくはら)(神戸市)遷都と京都還都、平氏の都落ち、木曽義仲(きそよしなか)の入京と敗死、源義経(よしつね)の入京と没落、平氏の滅亡と鎌倉幕府の成立と、時局はめまぐるしく変転する。約1年後に幽閉を解かれた法皇は、変転する時局に巧みに処して、没するまで「治天(ちてん)の君(きみ)」の地位を保持し続けた。平氏の都落ちに際してはいち早く延暦寺に逐電して同行せず、また入京した義仲と源行家(ゆきいえ)に平氏追討を命ずる一方で、源頼朝(よりとも)の功績を第一としてその上洛(じょうらく)を促すなど、法皇の老獪(ろうかい)さは、頼朝をして「日本第一の大天狗(てんぐ)」といわしめたほどであった。頼朝は法皇の生存中には、ついに彼のもっとも強く希求した征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の称号を得ることができなかったのである。
後白河院による院政は、11世紀末以来の白河上皇および鳥羽上皇による院政の継承であると同時に総仕上げであった。院庁(いんのちょう)が太政官(だいじょうかん)と並ぶ国政機関となり、新制という新しい形式で国政上の重要事項の徹底が図られるようになり、院の周辺に膨大な荘園群が集積されると同時に、治天の君はすべての荘園本所に超越する高権をもつ専制君主として位置づけられた。後白河院に近侍した信西は、院の専制的性格を、「あえて人の制法に拘(かかわ)らず、必ずこれを遂ぐ」と評している。後白河院は、絶えて久しかった大内裏(だいだいり)造営を行い、また蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂)、長講堂(ちょうこうどう)などを造営し、あるいは高野山(こうやさん)、比叡(ひえい)山などにもしばしば行幸し、熊野参詣(さんけい)は34回に及んだと伝えられる。また院は、清盛の福原の別荘で宋(そう)人を引見したことがあったが、それは当時の貴族たちからは「天魔のしわざ」と非難されることであった。さらに、院は笛の名手でもあったが、当時の流行歌である今様(いまよう)に対して異常なほどの執心ぶりを示した。名人上手と聞けば、身分の高下を問わず、遊女、傀儡子(くぐつ)などをも召し出して、夜を徹して歌い、声をつぶしたことも一度ならずあったという。そしてその歌謡を分類集成した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』10巻および『梁塵秘抄口伝(くでん)集』10巻を自ら撰述(せんじゅつ)している。建久(けんきゅう)3年3月13日没。66歳。御陵は京都市東山区三十三間堂廻(まわ)り町の法住寺陵。
[山本博也]
『川崎庸之編『日本人物史大系 1』(1961・朝倉書店)』▽『京都市編『京都の歴史 第2巻』(1971・学芸書林)』
第77代に数えられる天皇。在位1155-58年。鳥羽天皇の第4皇子。名は雅仁。母は待賢門院藤原璋子。近衛天皇急死の後,鳥羽院,美福門院,藤原忠通の意向で,後白河の子(後の二条天皇)を即位させるための暫定措置として1155年(久寿2)29歳で即位。翌56年(保元1)鳥羽院の死を契機に,皇位継承問題に摂関家の内紛が絡み,武士をとりこむ形で保元の乱が勃発する。勝利をおさめた後白河天皇側は崇徳上皇を配流し,信西を中心に天皇親政の体制をかため保元新制を断行,さらに没官所々を後院領として後白河院政の実現に備えた。58年後白河は二条天皇に譲位して院政を開始,以後二条,六条,高倉,安徳,後鳥羽の5代30余年にわたって院政をしいた。院政開始後まもなく,59年(平治1)暮れには平治の乱が起こって源氏が失脚し,武門棟梁平清盛が後白河院政の爪牙として勢力を伸ばし始める。当初後白河院と平氏とは協調的関係にあったが,平氏の専権化にともない両者はしだいに対立するようになる。その最初の表面化した事件が77年(治承1)の鹿ヶ谷事件である。院はその後も平氏への圧迫を停めず,79年平盛子,同重盛が死没するとその遺領を没収するに及んだ。こうして同年11月ついに清盛はクーデタを敢行し,院を鳥羽殿に幽閉して院政を停めた。しかし翌80年より以仁王の挙兵,諸国源氏の蜂起が相つぎ,同年暮れには清盛より院政再開の申請があり,院政が再開された。
83年(寿永2)7月平氏が西走すると,院は比叡山に隠れて平氏との同行を拒否し,かわって入京した源義仲に平氏追討の院宣を与えた。またいっぽうでは10月に源頼朝に東国沙汰権を付与し,上洛を促して義仲を牽制した。11月義仲により再び幽閉されたが,翌84年(元暦1)1月頼朝代官として上洛した源義経が義仲を滅ぼすと,今度は義経に平氏追討の院宣を与えた。翌85年(文治1)義経は壇ノ浦に平氏を滅ぼすが,院は頼朝を牽制するためことさらに義経をひきたて,そのことが頼朝,義経の不和を招き,同年10月には義経の要請に応じて頼朝追討の院宣が下された。しかしそのことはかえって頼朝に朝廷への干渉の口実を与える結果となり,いわゆる〈守護・地頭の設置〉を頼朝に認可せざるをえなくなった。92年3月13日法住寺殿で死没。陵墓は京都市東山区三十三間堂廻り町の法住寺陵。
後白河院は生涯を通じ造寺・造仏や院領の増加に尽力し,また平安末期から鎌倉幕府草創期にかけての激動の中で,権謀術数と果敢な行動力をもって事に当たった。信西は後白河を評して〈制法に拘(かかわ)らず〉意志を通すと言い,九条兼実は黒白をわきまえないと評し,源頼朝にいたっては〈日本国第一の大天狗〉と論評している。即位以前にはその自由な境遇から,自分の好きな今様(いまよう)を昼夜を通して,また老若男女貴賤を問わずいっしょに歌ったという。後に後白河院自身が撰修する《梁塵秘抄》の基礎はこのころにつちかわれたものであろう。
執筆者:飯田 悠紀子
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(五味文彦)
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1127.9.11~92.3.13
在位1155.7.24~58.8.11
鳥羽天皇の第4皇子。名は雅仁(まさひと)。母は藤原公実の女待賢門院璋子(しょうし)。崇徳天皇の同母弟。1155年(久寿2)近衛天皇が死去すると,鳥羽は後白河の長子(二条天皇)を後継者と決め,順序としてまず父の後白河を即位させた。崇徳はこれを不満として保元の乱(1156)がおき,後白河はこれに勝利する。2年後,二条天皇に譲位し,その翌年平治の乱で御所を焼かれている。二条の死後,三男(高倉天皇)を後継者に決め,68年(仁安3)二条の子六条天皇から高倉に譲位させた。この頃から院政の実が備わる。その後,平清盛と対立を深め,鹿ケ谷(ししがたに)の謀議の結果,幽閉・引退させられた。しかし81年(養和元)高倉の死によって院政を再開し,平家都落ちの後,源義仲の襲撃をうけたものの,翌年源頼朝勢力の京都進出後は頼朝との協調を方針とし,義経挙兵事件(1185)の一時的混乱をこえて,朝廷と幕府の共存に道を開いた。信仰に厚く,遊び事を好み,今様(いまよう)を集成して「梁塵(りょうじん)秘抄」を編纂したほか,朝儀の復興にもつとめ,「年中行事絵巻」を作らせた。
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…日本音楽の一種目。平安中期までに成立し,鎌倉初期にかけて流行した歌謡。今様とは,一般的に現代風というほどの意味で,歌曲を指して特に今様歌という場合もある。この語が文献上に初めて現れるのは《紫式部日記》の寛弘5年(1008)8月の条で,同時代の《枕草子》にも見えることから,一条天皇(在位986‐1011)時代にはすでに行われていたことが確認できる。さらに《吉野吉水院楽書(よしのきつすいいんがくしよ)》には〈今様ノ殊ニハヤルコトハ後朱雀院ノ御トキヨリナリ〉とあり,藤原資房の《春記》にも1040年(長久1)〈今様歌之戯有リ〉と記録され,この時期に貴族社会で流行し始めたとみられる。…
…生没年不詳。《梁塵秘抄口伝集》巻十によれば,保元の乱(1156)の翌年,当時31歳の後白河天皇は,当時72歳の乙前を召して師弟の契りを結び,十数年間今様の伝授を受けた。年老いてはいたが乙前の声は若く歌は上手であったという。…
…(1)平曲の曲名。伝授物。灌頂巻(かんぢようのまき)5曲の中。後白河法皇は建礼門院の閑居訪問を思い立つ。4月下旬のことで,道には夏草が茂り,人跡絶えた山里である。山すその御堂は寂光院(じやつこういん)で,浮草が池に漂い,青葉隠れの遅桜が珍しく,山ホトトギスのひと声も,法皇を待ち顔に聞こえる。質素な女院の庵に声を掛けると,老尼が出迎え,女院は山へ花摘みに行かれたと告げる。尼は昔の阿波内侍(あわのないし)だった。…
…1177年(治承1)後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた陰謀事件。権大納言藤原成親,僧西光(藤原師光)が中心となり,平康頼,僧俊寛,藤原成経(成親の子)らが加わった。俊寛の京都東山鹿ヶ谷の山荘で謀議をこらしたので,こう呼ばれる。平氏一門の急速な台頭は貴族層との対立を激化していたが,藤原成親は左近衛大将の地位をのぞんでいれられず,しかも平重盛・宗盛が左右大将に任命されたので平氏を憎み,上記の西光らの院近臣や北面武士の多田蔵人行綱らと結んで平氏討滅の密議を重ねるにいたった。…
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[軍事権門化]
平忠盛が鳥羽院の近臣として築きあげた武将としての地位,西国の国守を歴任して蓄えた財力をもとに,忠盛死後,平家武士団の首長を継ぐ。1156年(保元1)保元の乱で源義朝とともに後白河天皇方として勝利をおさめ,少納言入道信西(しんぜい)と結んで昇進,59年(平治1)には平治の乱で源義朝を破り,以後は唯一の武門の棟梁として,国家権力の中で〈武(軍事)〉を担当する権門としての地位を確立する。この間,父祖同様肥後,安芸,播磨など西国の国守に任ぜられ,大宰大弐(だざいのだいに)として鎮西(ちんぜい)支配にも乗り出している。…
…後白河法皇がその御所の六条殿のうちにつくった持仏堂。はじめ京都六条西洞院にあった。法華長講弥陀三昧堂の略称で,法華経を長期にわたって講義し,あわせて阿弥陀仏を念じて三昧境に入る道場のことを意味する。したがって本来固有名詞ではなく,院政期には多くの貴族たちがこうした持仏堂をつくったが,歴史上この後白河法皇の建立したものが最も有名で,単に長講堂といえばこれを指す。文献上の初見は,1185年(文治1)であるが,創建は1183‐84年(寿永2‐元暦1)ころと推定されている。…
…平安京外の七条大路末,東山に12世紀中期に営まれた後白河上皇の院御所。七条殿,東山御所などとも呼ばれた。この場所には10世紀末に藤原為光の創建した法住寺があり,子息たちに伝えられたが,11世紀前半の火事で焼失した。信西の妻によって一堂が造られた後,後白河上皇が院御所として建造した。これが法住寺殿の始まりである。上皇は1161年(応保1)4月13日に初めて移徙(いし)し,上皇の女御で高倉天皇の生母である平滋子(建春門院)も同居した。…
…平安後期の今様とその周辺歌謡の集成。後白河法皇撰。明確な成立年時は未詳。《梁塵秘抄口伝集》と同じころか。もと20巻で,歌詞の集成である《梁塵秘抄》10巻と口伝(くでん)を記した《梁塵秘抄口伝集》10巻があったと思われる。1世紀ほど後に成った《本朝書籍(しよじやく)目録》に〈梁塵秘抄廿巻 後白河院勅撰〉とある。現存のものは,天理図書館蔵の巻子(かんす)本である巻一の断簡21首と,袋綴2冊本の巻二(近世後期書写の孤本)の545首,ほかに《夫木和歌抄》に引く2首など。…
…後白河法皇の著。現存のものは巻一断簡と巻十のみ。もと10巻で《梁塵秘抄》20巻のうちの半分を占めるか。1169年(嘉応1)3月中旬ころまでに巻一から巻九までが成り,その後年月を経て1179‐80年(治承3‐4)以降成立。巻一は神楽,催馬楽(さいばら),風俗(ふぞく)の起りや沿革などを述べ,それ以外の歌として〈今様〉を記しその起源を述べる部分で切れ,以下を欠く。《梁塵秘抄》巻一と同じく見本的なものか。…
※「後白河天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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