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二階堂行政 にかいどう ゆきまさ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

二階堂行政 にかいどう-ゆきまさ

?-? 鎌倉時代の幕府官僚。
藤原行遠の子。二階堂行光の父。二階堂氏の祖。鎌倉の二階堂に居をかまえ,地名を名字とした。はやくから源頼朝につかえ,公文所寄人(くもんじょよりゅうど),ついで政所(まんどころ)の令,別当となり,正治(しょうじ)元年(1199)幕府合議制13人のひとりとなった。本姓は藤原。号は白尾三郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

二階堂行政

生年:生没年不詳
鎌倉初期の幕府吏僚。藤原行遠と熱田大宮司藤原季範の妹の子。鎌倉二階堂の地に居を構え,二階堂氏を称す。治承4(1180)年の除目では主計少允に任じられているが,母方が源頼朝の縁戚により,早くから幕府に仕えた京下り官人である。『吾妻鏡』では元暦1(1184)年新造公文所上棟に奉行として初見する。公文所寄人に名を列ね,続いて政所の令に就任し,さらに別当に昇任して,同じく別当である大江(中原)広元が公武交渉で上洛し不在がちな文治・建久年間(1185~99)に,鎌倉にあって一貫して幕府の実務の中心にあった。公文所・政所の文書発給にかかわり,また奥州合戦の軍奉行や頼朝の消息執筆,頼朝上洛時の雑事沙汰など,頼朝政権期にきわめて重要な役割を果たす。正治1(1199)年には13人合議制の一員となるが,以後の活動はほとんど見いだせなくなる。しかし政所におけるその地位は子孫に引き継がれ,その後は二階堂氏が政所執事の職を世襲していくことになる。

(奥田環)

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世界大百科事典 第2版の解説

にかいどうゆきまさ【二階堂行政】

鎌倉前期の文官。生没年不詳。《尊卑分脈》は父を藤原行遠,母を熱田大宮司藤原季範の妹とする。母方の血縁関係からであろうか,1184年(元暦1)より鎌倉幕府の吏僚として活動を始め,同年10月には公文所寄人,91年(建久2)政所令,93年政所別当と累進。彼の子孫が政所を勢力基盤として繁栄する礎を築いた。邸宅は鎌倉の二階堂(永福寺)近くにあり,子孫は二階堂氏を称す。【青山 幹哉】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

二階堂行政
にかいどうゆきまさ

生没年不詳。鎌倉初期の吏僚。父は白尾三郎行遠(ゆきとお)。母は熱田(あつた)大宮司藤原季範(すえのり)の妹で、源頼朝(よりとも)の母の叔母にあたる。鎌倉の二階堂に住し、地名を苗字(みょうじ)とする。二階堂氏の初代。また白尾三郎、大山城、生毘沙門などとも号す。1180年(治承4)正月、主計寮(かずえのつかさ)の守公神宝殿修造の際の材木などを準備した功により、正六位上主計少允(しょうじょう)に任ぜられる。その後鎌倉に下り、84年(元暦1)8月公文所(くもんじょ)新造の奉行(ぶぎょう)を勤め、10月公文所寄人(よりゅうど)となる。89年(文治5)7月の奥州合戦、翌年11月の頼朝入洛(にゅうらく)では、頼朝の側近にあって右筆(ゆうひつ)として文書作成にあたった。91年(建久2)正月政所(まんどころ)開設の際に令(れい)に任ぜられ、翌年民部少丞(みんぶのしょうじょう)、93年叙爵、民部大夫(たいふ)と称し、同年政所別当に列す。99年(正治1)4月、13人の合議制が発足するとその1人に加えられた。1204年(元久1)4月山城守(やましろのかみ)に任ぜられたが、翌年正月任を去った。[菊池紳一]

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