五十町村(読み)ごじつちようむら

日本歴史地名大系 「五十町村」の解説

五十町村
ごじつちようむら

[現在地名]都城市都島町みやこじまちよう南鷹尾町みなみたかおちよう久保原町くぼばるちよう平塚町ひらつかちよう・五十町・大岩田町おおいわだちよう今町いままち下長飯町しもながえちよう

木之前きのまえ村の北西宮丸みやまる村の南に位置する。大淀川の上流が中央を北東へ流れ、東を梅北うめきた川が北へ流れる高台にある。北西に向かって横市よこいち村から安永やすなが村に続く道、西に向かっては財部たからべ(現鹿児島県財部町)に通ずる道、南西の方向には福山ふくやま(現同県福山町)に通じる道、南に向かっては今町を経て末吉すえよし(現同県末吉町)に達し、さらに志布志しぶし(現同県志布志町)の道に接続する道が通る。北東端に中世の都城跡、南に中世の大岩田城跡があった。東西二村に分けて記されることもあった。地名の由来は耕地の面積から生れたものとされており(都城市史)、天文元年(一五三二)一一月一八日の富岡とみおか八幡宮(富岡明神とも)の棟札銘(庄内地理志)によれば、同宮は伊東祐修が大檀越となって造営したことがみえ、棟札の裏には「五十町分奉行宮田豊前守 福永丹後守」「南郷富岡社」とある。当地みなみ郷に属し、当時伊東氏が進出してきていたことを物語る。天正一四年(一五八六)一〇月の同社棟札銘(同書)には、北郷時久が大檀越とみえる。

慶長二〇年(一六一五)知行目録(都城島津家文書)に五拾町村とみえ高二千四六一石余。元和六年(一六二〇)の知行目録(同文書)では高一千八八九石余、明暦元年(一六五五)の知行目録(同文書)では高一千九八三石余(うち一二石余が承応三年竿入新仕明并畠田ニ成増高籠分)と、いずれも五十町村もしくは五拾町村と記される。これに対し寛文四年(一六六四)の諸県郡村高辻帳には五十町分ごじつちようぶん村とみえ、表高一千七五八石余。元禄国絵図・天保郷帳など表高を記す史料類では同村名・同高で記載されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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