日本大百科全書(ニッポニカ) 「五国同盟」の意味・わかりやすい解説
五国同盟
ごこくどうめい
19世紀前半にイギリス、フランス、プロイセン、オーストリアおよびロシアの5か国間に結ばれていた同盟。ナポレオン戦争の末期、1813年にフランスを除く前記4か国間に成立した同盟(四国同盟)が起源であるが、翌14年3月1日4か国は改めてショーモン条約を結び、欧州平和のためにナポレオン敗北まで戦うことを誓った。四国同盟はウィーン会議中いったん瓦解(がかい)したが、ナポレオンの再挙により15年3月、復活した。四国同盟は、人類の念願であるところの「一般的安寧」を確保するため四国協調の制度を確立する旨をうたい、4強国はウィーン会議が形成したヨーロッパの秩序を協力して維持することになった。18年、4か国はエクス・ラ・シャペル(アーヘン)に会合して、敗戦国フランスからの撤兵を決め、ついでフランスを同盟に加え、ここに五国同盟が成立した。
5強国は、トロッパウ(1820)、ライバハ(1821)、ベローナ(1822)と毎年会議を開き、ナポリ、スペインの革命を鎮圧して「秩序」の維持に成功したが、しだいに、不干渉の方向をとるイギリス、フランスと、「ヨーロッパ公法」の名のもとに革命を裁断するプロイセン、オーストリア、ロシアとの間に亀裂(きれつ)が深まった。「会議外交」とよばれる時期はこのころまでであって、以後は中南米植民地の独立にあたってはイギリス外相カニングが公然とこれを支持し、またギリシア独立戦争をめぐっては5か国それぞれの利害が対立するなど、同盟は実質的意味の乏しいものになった。1830年、フランスで七月革命が起こると、五国同盟側には革命干渉の権利が生じたが、王位についたルイ・フィリップは柔軟な対応で切り抜け、またベルギーの独立も認めざるをえなかった。30年代になると、イギリス、フランスは自由主義の旗印を掲げて「真摯(しんし)協商」を形成し、残りの3か国は「三国秘密協商」を結んで相互援助を約すに至った。しかし、イギリス、フランスもしだいに対立を深めるようになり、とくにエジプトのムハンマド・アリーの反乱に際して、イギリスは、40年7月、野心をもつフランスを排除した四国同盟を成立させた。
このようにして分裂をはらみながらも存続したヨーロッパ列強間の協調体制は、「一八四八年の革命」によっていちおうの終止符を打たれることになる。
[百瀬 宏]