イタリア南部のカンパニア州の州都,ナポリ県の県都。ティレニア海に面するナポリ湾の北岸に位置した港湾都市で,背後に農業地帯のフレグレイ平原が広がり,東部にベスビオ火山がある。ジェノバに次ぐイタリア第2の商港で,観光船を含めた船舶の出入りと乗降客数では最大の港。市の人口は98万4242(2005)で,ローマ,ミラノに次いで第3位だが,ナポリ湾岸の小都市群とともに人口300万の巨大都市域を形成している。
古くは,海中に身を投じたセイレンの一人パルテノペの死体が流れつき,その墓がたてられた場所ということでパルテノペParthenopēとよばれた。ナポリの名はギリシア人がこの地に植民市を建設し,ネアポリスNeapolis(〈新市〉の意)としたことに由来する。前4世紀ローマの支配下に入り,次いで6世紀に東ゴートを破ったビザンティン帝国が治め,8世紀に独立の公領となった。1139年ノルマン人に征服された後はシチリア王国,ナポリ王国,あるいは両シチリア王国の歴史と同じ歩みとなる。この間,16世紀にナポリ市の人口は急増する。アラゴンおよびスペイン支配のもとで集権化政策が進み,司法・行政諸機関のナポリへの集中に伴って大量の人口が流入したからである。それに市内の住民には食料供給,税制および営業認可に関して優遇措置が図られたことが,この動きを促進した。15世紀末に10万だった人口は17世紀初めには27万に達し,当時パリに次いでヨーロッパ第2位の数となった。人口増とともに16世紀には都市改造も進められた。とりわけスペイン総督トレドPedro de Toledoの支配期(1532-53)に市域の拡大,道路整備,住宅建築,防備の強化などが実行され,現在の市の目抜通りであるローマ通り(旧トレド通り)もこのとき造られた。しかし都市整備にもかかわらず,増加した人口問題を解決することはできず,劣悪な環境のもとで生活する貧民層が街にあふれた。ラッザローネlazzaroneとよばれるこれら下層大衆は,経済的にはめぐまれない境遇にいたが,彼らの快活で陽気な存在は,この街の日常性に並はずれたにぎわいの性格を与えることになった。温暖な気候と自然の景観を誇っていたナポリは,こうして16世紀に街のたたずまいを一変させ,〈悪魔にすみつかれた天国〉と評する者もでてきた。1647年広範な下層大衆の参加したマザニエーロの一揆が起こったが,その後56年のペストの流行は人口を一挙に15万人に減少させた。その後人口は回復して1740年代に30万台に達するが,64年の大飢饉で市民生活は再び危機に見舞われた。99年フランス革命軍の進駐に呼応した革命によってナポリ共和国が成立するが,ラッザローネの多数が反革命にくみして共和政を短命に終わらせた。なお,1839年イタリアで最初の鉄道がナポリ~ポルティチ間(8km)に敷設されている。
ガリバルディの征服(1860)に続くイタリア王国の成立によって,ナポリはそれまでの首都の地位からただの一地方都市に転落する。旧ナポリ王国では行政・王室・外交諸機関を抱える首都として南イタリア諸地域の収奪のうえに寄生的生活を成り立たせていたが,首都機能の喪失はそうした特権の崩壊をもたらした。イタリア統一の時点でナポリの人口は約45万,続くローマ,ミラノ,トリノの三大都市がそれぞれ20万前後だったから群を抜いた数だった。しかし,中央から支配される一地方都市にすぎなくなったナポリは,空間のない密集建築,悲惨な住宅環境,劣悪な衛生事情,膨大な貧困大衆の存在,犯罪組織カモッラの介入など都市の病理の点で注目を招き,ナポリ問題として議論をよんだ。1884年のコレラ発生の後ナポリ市環境整備法が制定され,旧市街の一部解体と新街区の建設を課題とする都市改造計画が練られた。一方,路地裏経済という表現で特徴づけられたこの街の経済をめぐって,経済学者ニッティらは工場を誘致して工業都市化を図る必要を説き,それがナポリ問題の解決の道であるとも強調した。工業化に関しては,1904年のナポリ市経済復興法に基づいて近郊のバニョーリに製鉄会社イルバIlva(現,イタルシデル)が設立されるなど,ある程度の実現をみた。しかし,都市改造による環境整備の課題は長年の努力にもかかわらず成功せず,第2次大戦後の新たな建築ブームと投機活動が混乱の度をかえって深めるという事態も招いた。近年では経済不況による失業人口の増加と1980年の大地震の被害が都市生活に深刻な影を落とした。
ナポリからは多くの独創的な思想家が生まれた。デカルト的合理主義を退け,諸民族の精神の働き方に踏み込んで歴史を理解しようとしたビーコ,1799年のナポリ革命失敗の原因を分析して受動革命論を打ち出したクオーコ,ヘーゲル哲学に学びながら美学論に取り組み,名著《イタリア文学史》を著したデ・サンクティス,精神の哲学の体系を構築し,歴史主義と自由主義の立場から論を展開したクローチェなどである。
この地にはまた豊富な民俗文化が伝わっている。祭り好きのナポリ人の間で,祭りの中の祭りとして親しまれたのがピエディグロッタの祭り(9月7~8日)である。古代ローマ時代から街はずれのピエディグロッタで神々を祝う祭りが催されていたが,中世にサンタ・マリア・ディ・ピエディグロッタ教会が建てられ,新たに聖母マリアにささげる祭りに引き継がれた。近代に入って軍事パレードや歌謡コンクールが付け加わり,《フニクリ・フニクラ》など数多くのナポリ民謡がここから生まれた。守護聖人サン・ジェンナーロSan Gennaroの奇跡もナポリ市民にとって不可欠なものである。ベネベントの司教だったジェンナーロは4世紀初め迫害の犠牲となって処刑された。そのとき流れた血がナポリの大聖堂に保管されていて,毎年決まった日に凝血の状態から自然に溶け出して液状になるのである。この凝血融解の奇跡は,サン・ジェンナーロがナポリ市民の保護と安全を約束して発するメッセージとみなされており,奇跡の起こらないときはなんらかの災難が降りかかる兆しとして恐れられている。またナポリにはイェッタトゥーラjettaturaとよばれる災いの観念がある。これはある種の人物に自然に備わった不思議な力によって他の人間や事物に災いがもたらされる現象を指しており,この災いを避けるためには角(つの)を身につけるか,あるいは手で角の形をつくるしぐさが必要とされている。イェッタトゥーラの習俗は旅行者や民俗学者の関心をひいて,いろいろな情景が記録にとどめられた。ナポリには早くから多くの旅行者が訪れ,旅行記を残しているが,それらに共通しているのは風光明美の地であることと街なかが乱雑に汚れていること,それにこの地の民衆が明るく快活でいわば祭りのモティーフにあふれているとする印象である。日本からは1873年に明治政府の岩倉使節団がナポリを訪れ,景勝の地ではあるが,12ヵ国の欧米諸都市を回ったなかで,ここほど〈清潔ニ乏シク,民懶ニシテ貧児ノ多キ所ハナシ〉と《米欧回覧実記》に悪印象を記している。岩倉使節団はナポリの民衆の怠惰と貧しさを強調するあまり,彼らがそのなかで明るさ,陽気さを保ち生活を楽しんでいる姿を見落としてしまったといえる。
→メッツォジョルノ
執筆者:北原 敦
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イタリア南部、カンパニア州の州都で、工業・港湾都市、観光都市。英語名ネープルスNaples。面積117.27平方キロメートル。人口99万3386(2001国勢調査速報値)はローマ、ミラノに次いで同国第3位。人口密度は1平方キロメートル当り8470.9人で第5位である。東方のベスビオ火山および西方にある独特な火山地帯カンピ・フレグレイCampi Flegreiに挟まれ、ナポリ湾の北東隅に位置する。
[堺 憲一]
同市が近代的工業都市として本格的に発展する契機となったのは1904年のナポリ工業振興特別法である。これによってナポリ西郊5キロメートルのバニョーリにイルバ社の製鉄所が建設された。港はすでに1890年代以降、南部イタリアからアメリカに移民する人々の出発港となっていたが、ファシズム期にはイタリアの海外植民地との交易が市の経済発展を大きく助長した。1950年代後半から60年代前半にかけては、南部開発政策と関連した大規模投資もあって、ポミリアーノ・ダルコ、カステッラマーレ・ディ・スタビア、ポッツォーリ、カゾーリアなど近郊の諸都市を含めて工業化が著しく進展し、ナポリを中心とする広大な臨海工業地帯が形成された。とくに製鉄、機械、自動車、造船、精油、食品などの工業活動が盛んである。
ナポリ港の海外との交易量は、かつてはジェノバに次いで全国第2位を占めていたが、現在ではその地位を後退させた。カプリ島やイスキア島などナポリ湾岸の観光地を近くに擁しているため、沿岸航路の旅客数は全国第3位(1997)である。
[堺 憲一]
「ナポリを見て死ね」という諺(ことわざ)があるように、ナポリは風光明媚(めいび)な観光都市で、ベスビオ火山を背景としたその風景はあまねく知られている。とくにボーメロの丘やポジリポの丘から眺める市街やナポリ湾の見晴らしはすばらしい。市内には、1279~84年に建てられたアンジュー家の城で15世紀にアラゴン家のアルフォンソ1世時代に再建されたカステル・ヌオーボ、サンタ・ルチア地区にある卵城(カステル・デッローボ、12世紀)、ボーメロの丘の上に位置し現在では国立博物館となっているサン・マルティーノ修道院(14世紀。16~17世紀に再建)、1602年に建てられたブルボン家の王宮(パラッツォ・レアーレ)、ミラノのスカラ座やローマのオペラ座と並ぶオペラの殿堂サン・カルロ歌劇場(1737)、13世紀末~14世紀初めに建設されたサン・ジェンナーロ大聖堂などの歴史的建造物が多い。また、ポンペイやエルコラノなどで発見された美術品の所蔵などで国際的に有名な国立考古博物館(16世紀)や1224年創設のナポリ大学などの文化施設があり、市街中心部のスパッカ・ナポリ地区は下町情緒に満ちあふれている。さらに近郊にもベスビオ火山、ポンペイやエルコラノの遺跡、カプリ島、イスキア島、ソレントなど多くの名所が存在する。『オ・ソレ・ミオ』や『サンタ・ルチア』に代表されるナポリ民謡は世界中に知られている。なお、1995年にナポリの歴史地区は世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[堺 憲一]
紀元前5世紀前半、ギリシア植民市キュメにより建設され、「新しい都市」を意味するネアポリスNeapolisとよばれた。前326~前90年の間は、ローマの同盟市としての地位を保持するが、その後は事実上の従属状態に置かれた。しかし、ギリシア的伝統や風光のよさゆえに、ローマの富裕階級によって安らぎと楽しみの場として親しまれるようになった。
西ローマ帝国滅亡後、ビザンティン帝国の支配下で形成されたナポリ公国は、ステーファノ2世治世下(755~766)にビザンティン帝国から独立した小公国となり、1139年ノルマン人に征服されるまで存続した。ノルマン人およびドイツのホーエンシュタウフェン家に支配されるシチリア王国時代には、当時教皇の強い影響下にあったボローニャ大学に対抗して、フリードリヒ2世によってナポリ大学がつくられた。彼の死後、シチリア王の座はシャルル・ダンジューの手中に入るが、1282年の「シチリアの晩鐘」の乱を契機にして、シチリアからの後退を余儀なくされる。かくしてシチリア王国から分離してナポリ王国が成立、ナポリはその首都となり、南イタリアの政治、経済、文化の中心となった。
しかし、中世を通じていえることであるが、ナポリは良港をもっているにもかかわらず、アマルフィ、ピサ、ジェノバのように海に向けて商業的進出を図るよりは、それまでと同様に周辺の農村に経済的基盤を求めるという方向を重視した点は注目に値しよう。1442年までのアンジュー家、さらに1501年までのアラゴン家、1503~1707年のスペインのハプスブルク家(総督)による統治を経て、1734年にスペインのブルボン家の支配が開始される。カルロス3世(ナポリ王としてはカルロ7世、在位1735~59)はタヌッチを首相にして一連の改革を行ったが、結局は不徹底に終わり、経済的沈滞、劣悪な衛生事情、ラッズァローニとよばれる大勢の貧民の存在、といった諸問題は未解決のまま残された。
1806~15年のナポレオン時代が終わると、ナポリ王国とシチリア王国が合併して両シチリア王国が成立し、ブルボン家がナポリに復位した。1860年ガリバルディ軍とサルデーニャ王国軍に制圧され、イタリア王国に編入された。
[堺 憲一]
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イタリア南部の港湾都市。前5世紀頃,ギリシア人の植民によって誕生。1282年に半島南部がシチリアから分離されるのに伴い,ナポリ王国の首都となった。その後,アラゴン王国,スペイン・ハプスブルク家,スペイン・ブルボン家などの支配を受けたが,1861年にイタリア王国に併合されるまでほぼ一貫して王国の首都としての地位を保持して繁栄し,19世紀前半にはロンドン,パリに次ぐヨーロッパ第3の人口規模を誇った。
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… 南イタリア(メッツォジョルノ)はカンパニア,アブルッツィ,モリーゼ,プーリア,バジリカータ,カラブリア,シチリア,およびサルデーニャの8州から成っている。歴史的に見れば,サルデーニャを別にすれば,常にナポリを中心とする王国を成していた地域であり,その歴史は北イタリアおよび中部イタリアと非常に違っている。このような歴史的事情と民族的・文化的要素の違い,そして両シチリア王国がピエモンテに軍事的に征服されるという形でイタリアの統一が達成されたという事情のために,イタリア王国のもとにおいて,南部の工業化と農業開発とは非常に遅れ,南北の格差はイタリア統一後大きな問題になってきた。…
…面積1万3594km2,人口571万(1994)。州都はナポリ。アベリーノ,ベネベント,カゼルタ,ナポリ,サレルノの5県からなり,イスキア,プロチーダ,カプリの島々が属する。…
※「ナポリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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