ウィーン会議(読み)うぃーんかいぎ(英語表記)Congress of Vienna

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィーン会議」の意味・わかりやすい解説

ウィーン会議
うぃーんかいぎ
Congress of Vienna

ナポレオン戦争の戦後処理を行った国際会議。ナポレオン退位から5か月後の1814年9月に始まり、15年6月9日の最終議定書調印によって終わった。この会議にはほとんどヨーロッパ中の君主や統治者が参集したが、実際にはオーストリアプロイセン、ロシア、イギリスの4か国が会議の主導権をとり、主要な決定は、ことごとく大国によって行われた。

 戦後処理の主眼は、復古による革命勢力の抑圧と、勢力均衡の原理による安定した国際秩序の創出に置かれた。会議の結果を要約すれば以下のとおりである。

(1)敗戦国フランスの領土削減と封じ込めを目的として、オランダベルギーを取得せしめ、プロイセンにザクセンの5分の2その他を与えてその強化を図り、スイスの連邦形成と永世中立要求を認めるなどフランス周辺に障壁を形成した。

(2)ドイツ諸邦については、ナポレオン戦争を通じ300余から38に減じた諸邦をそのまま認めて、勢力均衡の見地から緩い「連邦」の形での「中欧に強国なき」状態を持続させた。

(3)ナポレオンに対する軍事的勝利に立脚して一挙に膨張しようとするロシアを制して、クラクフを独立市、ダンツィヒをプロイセン領とするなど削減した残りのポーランド領をロシアに与えた。

(4)オーストリアについては、ベルギーの放棄を北イタリア取得で代償し、またドイツ連邦の盟主としての地位をこれに与えて、プロイセンの台頭に備えさせた。

 ウィーン会議はまた、国際河川の自由航行の原則を確立したことや、外交上の制度、慣例を定めたことでも知られている。

 ウィーン会議の進行はけっして順調ではなかった。当初に戦勝四大国が会議の主導権をとることで合意するや、フランスの外相タレーランが乗り込んで諸小国の不満を背景に自国の発言権を確保したり、1815年1月にはロシアの横暴を阻止するため、フランス、オーストリア、イギリスが秘密協定を結ぶなど、会議は対立に悩まされたうえ、ナポレオンが突如エルバ島を脱出(1815年2月)して「百日天下」を演ずるなど椿事(ちんじ)が出来(しゅったい)した。しかし、会議を主宰したオーストリアの宰相メッテルニヒは、ウィーンに集まった各国代表のために舞踏会を開いて機の熟するのを待ち(このため「会議は踊る。されど会議は進まず」という風刺が生まれた)、イギリス外相カースルレーも対立する要求の仲介者として活躍するなど、ヨーロッパの古典的外交の粋が発揮されたことも事実である。

[百瀬 宏]

『高坂正堯著『古典外交の成熟と崩壊』(1978・中央公論社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィーン会議」の意味・わかりやすい解説

ウィーン会議
ウィーンかいぎ
Congress of Vienna; Wiener Kongress

フランス革命ナポレオン戦争ののち,ヨーロッパの政治秩序再建のため,1814年9月から 15年6月まで,ウィーンで開かれた列国会議。オーストリア,プロシア,ロシア,イギリスの四大国が事実上の決定権をもち,ほか関係諸国の代表が列席した。敗戦国フランスも参加し,タレーランの外交手腕によって巧みに自国の利益を守った。他国の君主貴顕も集り,オーストリア宮廷は絶えず派手な招宴を催して宴会外交を展開し,議事遅延を招いたことでも有名。 15年6月9日のウィーン最終議定書により,(1) オーストリアはベネチア,ロンバルディアを獲得,(2) プロシアはライン川下流地域やザクセンの一部を獲得,(3) ロシアはポーランドを獲得,(4) イギリスは植民地を拡大,(5) オランダはベルギーを合併,(6) スイスは永世中立国となり,(7) ドイツ諸邦はドイツ連邦を結成するなどの決定が行われた。これらはいずれも,諸国民の民族主義的,自由主義的要求を圧殺し,フランス革命以前の統治体制の再建を目指す正統主義と,ヨーロッパ諸大国の勢力均衡という二大原則の実現を目指したものである。これに基づく復古体制は,普通ウィーン体制と呼ばれ,オーストリアの宰相メッテルニヒが,三月革命にいたるまで,この体制の指導者であった。

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