五百木良三(読み)イオギ リョウゾウ

20世紀日本人名事典 「五百木良三」の解説

五百木 良三
イオギ リョウゾウ

明治〜昭和期のジャーナリスト,俳人 政教社社長;「日本及日本人編集長



生年
明治3年12月14日(1871年)

没年
昭和12(1937)年6月14日

出生地
愛媛県松山

別名
号=五百木 飄亭(イオギ ヒョウテイ)

学歴〔年〕
松山医学校〔明治18年〕卒

経歴
明治22年上京し、正岡子規らと句を競う。日清戦争に看護長として従軍し、「日本」に「従軍日記」を連載。帰国後の28年日本新聞社に入社し、33年国民同盟会を結成するなどしたが、俳壇からは離れた。昭和4年政教社に入社、雑誌「日本及日本人」を主宰し、以来、対外硬論を唱えた。のち社長に就任。10年国体明徴運動に参加。没後の33年「飄亭句日記」が刊行された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「五百木良三」の解説

五百木良三

没年:昭和12.6.14(1937)
生年:明治3.12(1870)
明治から昭和にかけての対外硬ジャーナリスト。号は飄亭。松山(愛媛県)の生まれ。最初は医学を学ぶ。明治28(1895)年『日本』に入社。33年近衛篤麿の国民同盟会に参加し,同会の機関誌『東洋』の編集に協力。34年『日本』に復社し,編集長となる。36年対露同志会に参加し,38年日比谷でポーツマス講和条約に反対する国民大会を河野広中らと開く。昭和3(1928)年『日本及日本人』の政教社に入り,社主。5年ロンドン海軍軍縮条約反対運動,10年国体明徴運動に参加した。また俳人として,同郷の正岡子規と交友があった。<参考文献>『日本及日本人』351号(五百木良三追悼号)

(小宮一夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「五百木良三」の解説

五百木良三 いおき-りょうぞう

1871*-1937 明治-昭和時代前期のジャーナリスト,俳人。
明治3年12月14日生まれ。22年上京し,同郷の正岡子規らと句作にはげむ。28年日本新聞社にはいり,34年「日本」編集長。昭和3年政教社にうつり,「日本及日本人」を主宰。大アジア主義をとなえた。昭和12年6月14日死去。68歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身俳号は飄亭(ひょうてい)。著作に「飄亭句日記」など。
【格言など】客断えて風鈴の音一しきり(辞世)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の五百木良三の言及

【日本及日本人】より

…関東大震災後の再建をめぐり社内が対立し,1923年に三宅雪嶺は退社。以後は五百木良三らの右翼の手に移り,45年終刊した。【有山 輝雄】。…

※「五百木良三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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