評論雑誌。1906年(明治39)12月、国粋主義団体政教社の機関誌『日本人』(1888創刊)を改題し、07年1月1日号(通巻第450号)として三宅雪嶺(みやけせつれい)主宰でスタート。月2回刊。当時の執筆陣は雪嶺のほか、長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)、福本日南、丸山幹治、古島一雄(こじまかずお)、久津見蕨村(くつみけつそん)など。この顔ぶれでもわかるように、国粋主義といっても右翼的国体論のような狭いものではなく、明治政府の上からの欧化政策に対抗した開明的な国粋主義であった。したがって如是閑や丸山らは大正デモクラシー論客の中心となった。しかし大正期に入り三井甲之(こうし)や杉浦重剛(しげたけ)らが参加し、昭和期に入って侵略戦争の開始と並行して超国家主義的色彩を濃くして、戦争協力の雑誌となった。如是閑や中里介山(かいざん)の小説があったり、外国文学を精力的に紹介した同誌は1944年(昭和19)まで続いた。なお、66年(昭和41)に日本及日本人社から同名の雑誌が発行され今日まで続いているが、往年の色彩はない。
[松浦総三]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…初期は志賀,三宅が主宰し,やがて内藤湖南,畑山呂泣,長沢別天らの若い世代が同人となり,志賀が政治の実践活動を強めるに伴い,98年ころより三宅が中心となった。陸羯南(くがかつなん)主筆の新聞《日本》グループとは終始思想的・人的には異名同体の関係にあり,陸の病気により《日本》の経営が伊藤欽亮の手に渡ると,長谷川如是閑や河東碧梧桐らの《日本》グループを吸収し,1907年1月《日本人》を《日本及日本人》と改題した。23年,関東大震災直後,三宅が離脱して《我観》を創刊(1923年10月)したため,ほぼその使命を閉じた。…
…日清戦争後は,志賀重昂が政教社を離れ,実質的に三宅雪嶺が雑誌を主宰するようになった。1906年,新聞《日本》が伊藤欽亮の手に渡るや,旧日本社員と政教社は合併し,雑誌を《日本及日本人》と改題,みずからの思想的立場を守った。なお刊行は創刊以来3次にわたって断続して行われた。…
※「日本及日本人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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