大アジア主義 (だいアジアしゅぎ)
欧米列強のアジア侵略に対して,アジアの団結を図ろうとする主張。アジア主義,パン・アジア主義などとほぼ同義に用いられている。明治の初期における民権論と国権論,欧化主義と国粋主義の対立は,日本の膨張主義が生み出したものであり,この風潮のなかから大アジア主義は生み出されてきたといえる。膨張主義は本多利明の《西域物語》,佐藤信淵の《混同秘策》などに見ることができ,ペリー来航以降には橋本左内や吉田松陰をはじめとして多数現れてきた。のちに出版される菅沼貞風の《新日本図南の夢》,東海散士の《佳人之奇遇》,矢野竜渓の《浮城物語》などは対外発展,海外雄飛ものであった。
植木枝盛は自由民権の立場から,アジア諸民族の自由平等を守るべく,欧米に対する抵抗を正当化し,連帯の必要を説き,世界政府論を掲げた。大井憲太郎は,朝鮮の改革と日本の対外進出を関連させつつ,アジア諸国の〈愛国の心〉と〈自治の精神〉の誘起を図ろうとした。また樽井藤吉は,白人の侵略に共同防衛するには,〈各邦の自主自治の政をして,均平に帰せしむ〉日韓の合邦が必要だとした。そして,樽井の創見を継承したのは内田良平である。内田は李容九と結んで樽井の説く対等関係としての日韓合邦に尽力した。しかし,その結果は総督政治であり,東亜連邦組織の基礎たりうるものではなかった。岡倉天心は,汚辱に満ちたアジアが本性に立ち戻る姿を〈アジアは一つ〉と言い表し,美の破壊者としての西欧的なものを排斥すべきものとした。宮崎滔天は,終始一貫した同情と犠牲的精神をもって中国の革命に尽力した。
しかし,このようにさまざまな側面をもっていた大アジア主義も,自由民権の衰退,国家機構の整備,清やロシアに対する軍備拡張の過程でしだいにアジアへの侵略へと収斂(しゆうれん)されていった。〈黒竜会綱領〉には〈天皇主義〉〈軍人勅諭の精神〉〈海外への発展〉が掲げられ,また,北一輝は平民社に失望して,中国同盟会や黒竜会に接近した。そしてこれ以降の大アジア主義は,天皇主義とともに,多くの右翼団体に担われ,のちには東亜新秩序,大東亜共栄圏の思想へと結びついていくことになる。これに対して,中国の革命勢力からの批判も出てきた。1919年の李大釗(りたいしよう)の論文〈大亜細亜主義与新亜細亜主義〉や,24年の孫文の神戸での〈大アジア主義〉と題する講演中の〈日本は世界文化に対して西方の覇道の番犬となるか,はたまた,東方王道の干城となると欲するか〉の一言などがそれである。
→アジア主義
執筆者:橋川 文三
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大アジア主義
だいあじあしゅぎ
アジア諸民族の連帯・団結によって、西洋列強のアジア侵略に対抗し、新しいアジアを築こうという思想と運動。アジア主義、汎(はん)アジア主義とほぼ同義に用いられ、〔1〕日本の大アジア主義の系譜、〔2〕孫文の大亜州主義、〔3〕ネルーの第三勢力論の三類型がある。
日本の大アジア主義は、ともに西洋列強の圧迫下にあるアジア諸民族との連帯論とアジア大陸への膨張侵略論が交錯しながら展開した。アジア連帯論は民権左派から発し、西洋列強への共同防衛のため日韓両国の対等合邦を説いた樽井藤吉(たるいとうきち)の大東合邦論、国内立憲政治樹立と朝鮮改革の結合を企図した大井憲太郎らの大阪事件が代表例であるが、自由民権運動衰退のもとで民権論から国権論への傾斜を強めたことは否めず、この傾斜を鋭角的に示したのが玄洋社であり、国権拡張主義的アジア主義を鮮明にしたのが黒竜会である。黒竜会の綱領には天皇主義、海外への発展が掲げられ、日本を盟主としたアジア大陸保全論を導出した。しかし、内田良平が日韓合邦論者であり、フィリピン独立運動や中国革命運動に関与するなど一方的な侵略主義とはいえない面もあった。
天皇制国家の確立と帝国主義的侵略の本格化のもとで、宮崎滔天(とうてん)は孫文の中国革命を終始一貫した同情と犠牲的精神をもって支援し、「アジアは一つ」と唱えた岡倉天心は人間の本性たる美の破壊者として西洋帝国主義を批判し、日本、中国、インドとその多様性を認めつつ西洋とは異質のアジア文明を称揚しロマン主義的アジア連帯論を唱えた。しかし、大アジア主義の大勢は日本主義や皇道主義と結び付き、右翼団体に担われた独善的な連帯論となり、日本のアジア支配を根幹とした東亜新秩序、大東亜共栄圏の思想となっていった。
このように政府・軍部の大陸侵略策を正当化するイデオロギーになった大アジア主義を、中国革命勢力は、吸収主義であると痛烈に批判、李大釗(りたいしょう)はアジア諸民族の解放と平等な連合によるアジア大連邦の結成を説き、孫文は西洋の覇道主義に対して東洋文化は仁義道徳に基づく王道主義であるとし、アジア諸民族はこの主義のもとに一致団結して植民地化に抵抗し独立を全うするよう大亜州主義を唱えた。
第二次世界大戦後には、インドのネルー首相が中立主義・第三勢力論を提唱、米ソ両陣営の対立激化のもとで、アジア諸民族はいずれの陣営にも偏らず、国連安全保障理事会の権威を高めながら独立を守り、世界政治の安定勢力としての役割を果たすよう訴えたが、南北問題に象徴されるような経済的自立と発展の方策など大きな試練に直面することになった。
[和田 守]
『「日本のアジア主義」(『竹内好全集 第八巻』所収・1980・筑摩書房)』
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大アジア主義
だいアジアしゅぎ
Pan-Asianism
欧米列強のアジア侵略に抵抗するため,アジア諸民族は日本を盟主として団結すべきであるという考え方。明治初期以来,種々の視角から展開された。植木枝盛は自由平等の原理に基づきアジア諸民族がまったく平等な立場で連帯すべきことを説き,樽井藤吉や大井憲太郎は,アジア諸国が欧米列強に対抗するため連合する必要があり,日本はアジア諸国の民主化を援助すべき使命があると説いた。明治 20年代になると,大アジア主義は明治政府の大陸侵略政策を隠蔽する役割をもつようになった。 1901年に設立された黒龍会の綱領にもみられるように,その後の大アジア主義は天皇主義とともに,多くの右翼団体の主要なスローガンとされ,これに基づいて満蒙獲得を企図する政府,軍部の政策が推進された。日本人の大アジア主義的発想は,第2次世界大戦前,戦中の「大東亜共栄圏」構想を支えた。
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大アジア主義(だいアジアしゅぎ)
日本を盟主としてアジア諸民族の連帯を訴える主張。アジア連帯論は明治初年より唱えられ,特に自由民権論のなかでいろいろの形で主張された。しかし明治20年代には連帯論は大アジア主義の形をとり,本質的には明治政府の大陸侵略政策を擬装するようになった。以後,日本の右翼団体の綱領の有力な一つとなり,これに対して中国では批判,警戒をした。大東亜共栄圏の構想はこの主義の継承である。
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大アジア主義
だいアジアしゅぎ
日本を中心にアジア諸民族が団結して,欧米列強の圧迫に対抗すべきであると説く思想
アジア主義ともいう。1881年玄洋社を結成した頭山満が唱えた。本来は民族主義的性格が強かったが,しだいに日本の帝国主義的侵略を合理化する理論となる。東亜新秩序・大東亜共栄圏などはその典型。
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世界大百科事典(旧版)内の大アジア主義の言及
【アジア主義】より
…敗戦までの近代日本に一貫して見られる対外態度の一傾向。さまざまな政治的立場と結びつき,かつ日本の国際的地位の変化につれてたえず具体的内容が変化しているので,きわめて複雑でとらえがたい。しかし,中国などアジア諸国と連帯して西洋列強の圧力に対抗し,その抑圧からアジアを解放しようといった主張を掲げつつ,意識的または無意識的に,列強のアジア侵出に先制して,もしくはそれにとって代わって,日本をアジアに侵出させる役割を果たした点に,最大の特徴がある。…
【孫文】より
…4月《国民政府建国大綱》を発表して三民主義と五権憲法(立法,司法,行政,監察または弾劾,考試)に基づいて中華民国を建設すること,建設の順序は(中国同盟会時期の《革命方略》を発展させて)軍政時期,訓政時期,憲政時期の3段階とすることを定めた。11月日本を訪問し,神戸で〈大アジア主義〉の題で講演し,欧米の覇道と東洋の王道を対置し,ソビエトを王道国家とし,アジアの被圧迫民族を解放するため日本が覇道を捨てて王道に帰り不平等条約を廃棄するよう求めた。25年3月北京の病床にあって国民党への遺嘱をつづり,〈世界でわれわれを平等に待遇する民族と連合し,共同して奮闘す〉べきこと,〈革命はなおまだ成功していない〉ので建国方略,建国大綱,三民主義,国民党第1回全国代表大会宣言に基づいて努力を続け,国民会議開催と不平等条約廃棄を最短期間に実現すべきことを訴えた。…
※「大アジア主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」