大アジア主義(読み)だいあじあしゅぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大アジア主義」の意味・わかりやすい解説

大アジア主義
だいあじあしゅぎ

アジア諸民族の連帯団結によって、西洋列強のアジア侵略に対抗し、新しいアジアを築こうという思想と運動。アジア主義、汎(はん)アジア主義とほぼ同義に用いられ、〔1〕日本の大アジア主義の系譜、〔2〕孫文の大亜州主義、〔3〕ネルーの第三勢力論の三類型がある。

 日本の大アジア主義は、ともに西洋列強の圧迫下にあるアジア諸民族との連帯論とアジア大陸への膨張侵略論が交錯しながら展開した。アジア連帯論は民権左派から発し、西洋列強への共同防衛のため日韓両国の対等合邦を説いた樽井藤吉(たるいとうきち)の大東合邦論、国内立憲政治樹立と朝鮮改革の結合を企図した大井憲太郎らの大阪事件が代表例であるが、自由民権運動衰退のもとで民権論から国権論への傾斜を強めたことは否めず、この傾斜を鋭角的に示したのが玄洋社であり、国権拡張主義的アジア主義を鮮明にしたのが黒竜会である。黒竜会の綱領には天皇主義、海外への発展が掲げられ、日本を盟主としたアジア大陸保全論を導出した。しかし、内田良平が日韓合邦論者であり、フィリピン独立運動や中国革命運動に関与するなど一方的な侵略主義とはいえない面もあった。

 天皇制国家の確立と帝国主義的侵略の本格化のもとで、宮崎滔天(とうてん)は孫文の中国革命を終始一貫した同情と犠牲的精神をもって支援し、「アジアは一つ」と唱えた岡倉天心は人間の本性たる美の破壊者として西洋帝国主義を批判し、日本、中国、インドとその多様性を認めつつ西洋とは異質のアジア文明を称揚しロマン主義的アジア連帯論を唱えた。しかし、大アジア主義の大勢は日本主義や皇道主義と結び付き、右翼団体に担われた独善的な連帯論となり、日本のアジア支配を根幹とした東亜新秩序大東亜共栄圏の思想となっていった。

 このように政府・軍部の大陸侵略策を正当化するイデオロギーになった大アジア主義を、中国革命勢力は、吸収主義であると痛烈に批判、李大釗(りたいしょう)はアジア諸民族の解放と平等な連合によるアジア大連邦の結成を説き、孫文は西洋の覇道主義に対して東洋文化は仁義道徳に基づく王道主義であるとし、アジア諸民族はこの主義のもとに一致団結して植民地化に抵抗し独立を全うするよう大亜州主義を唱えた。

 第二次世界大戦後には、インドのネルー首相が中立主義・第三勢力論を提唱、米ソ両陣営の対立激化のもとで、アジア諸民族はいずれの陣営にも偏らず、国連安全保障理事会の権威を高めながら独立を守り、世界政治の安定勢力としての役割を果たすよう訴えたが、南北問題に象徴されるような経済的自立と発展の方策など大きな試練に直面することになった。

[和田 守]

『「日本のアジア主義」(『竹内好全集 第八巻』所収・1980・筑摩書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大アジア主義」の意味・わかりやすい解説

大アジア主義
だいアジアしゅぎ
Pan-Asianism

欧米列強のアジア侵略に抵抗するため,アジア諸民族は日本を盟主として団結すべきであるという考え方。明治初期以来,種々の視角から展開された。植木枝盛は自由平等の原理に基づきアジア諸民族がまったく平等な立場で連帯すべきことを説き,樽井藤吉や大井憲太郎は,アジア諸国が欧米列強に対抗するため連合する必要があり,日本はアジア諸国の民主化を援助すべき使命があると説いた。明治 20年代になると,大アジア主義は明治政府の大陸侵略政策を隠蔽する役割をもつようになった。 1901年に設立された黒龍会の綱領にもみられるように,その後の大アジア主義は天皇主義とともに,多くの右翼団体の主要なスローガンとされ,これに基づいて満蒙獲得を企図する政府,軍部の政策が推進された。日本人の大アジア主義的発想は,第2次世界大戦前,戦中の「大東亜共栄圏」構想を支えた。

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