井波町(読み)いなみまち

日本歴史地名大系 「井波町」の解説

井波町
いなみまち

[現在地名]井波町井波

礪波平野の南東部、八乙女やおとめ山の北西麓台地に立地。瑞泉ずいせん寺の寺内町として開かれた。明徳元年(一三九〇)八月の瑞泉寺勧進状(瑞泉寺文書)によれば、都波となみ山斐やまひ郷内の井波の地は山深く俗縁が薄く、人里からも遠く隔った地であった。文明一三年(一四八一)礪波郡一揆により山田やまだ川以東は瑞泉寺支配と定められ、礪波郡の郷士・国侍などは残らず降参して瑞泉寺へ参集したという(闘諍記)。以後、井波町は要害化した瑞泉寺を中心に宿的機能も有した寺内町として発展。天正九年(一五八一)九月瑞泉寺は佐々成政勢に攻略され(同月八日「瑞泉寺佐運書状」歴代古案)、その跡には成政の部将前野小兵衛が入り井波城と称した(武功夜話)。同一一年八月二〇日の知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に「八拾五俵之所 同郡井波村」とあり、佐々成政が佐々定能に宛行っている。同一三年閏八月羽柴秀吉勢の越中攻めにより井波城は廃城となった。井波は「昔ノ形トテハ土手堀ノミ草原ニテ、漸々東西ノ井波ニ小屋百軒不足」という有様であった(瑞泉寺由来記)

越中に入った前田利家は天正一五年四月一八日、井波の「畠方千四百余」を給人地から直轄領にもどし、井波村百姓らに開作を命じている(「前田利家印判状写」井波町肝煎文書)前田利勝(利長)は、文禄三年(一五九四)一一月二八日井波大工一〇人に屋敷地を与え(「井波大工居屋敷扶持状」越中古文書)、慶長四年(一五九九)一一月には井波の鍛冶四人に屋敷を与えて保護しており(「城端町・井波町屋敷拝領鍛冶書上」同文書)、この頃から井波町の本格的な復興が始まり、同一八年には現在地に再建された瑞泉寺を中心に町場の復旧が進んだとみられる。明暦年中(一六五五―五八)には瑞泉寺門前(北側)正面通りを八日ようか町、同町の東側で金屋岩黒かなやいわぐろ(現庄川町)に通ずる通りを六日むいか町、同じく西側で城端じようはな町に通ずる通りを三日みつか町と称した。これら町名は当地で毎月一・三・六・八の日に市が立ったことに由来するとされる(一の日は瑞泉寺境内)。寛文二年(一六六二)には三ヵ町の北方にあら町が形成された(井波誌)。新町は天保一〇年(一八三九)かみ・中・下に分離し、さらに同一二年には北新きたしん町・やました町・いま町・大宝院だいほういん町などが成立(井波町肝煎文書)町並は瑞泉寺を扇の要として扇状に発展したが、当初の寺内町からしだいに市場町・機織の町として機能を変化させた。なお町政は町肝煎と組合頭(四人からのち九人)・算用聞(二人からのち五人)が担った(井波町史)


井波町
いなみまち

面積:二六・二〇平方キロ

県南西部に位置し、北は砺波となみ市、東は庄川しようがわ町、西は福野ふくの町・井口いのくち村。南境には高清水たかしようず山地八乙女やおとめ(七五一・八メートル)大寺おおでら(九一九・一メートル)の山稜が続き、北西部は庄川が形成した礪波平野が広がる。八乙女山に発する東大谷ひがしおおたに川と西大谷川が北西流し小扇状地を形成する。八乙女山北麓にある瑞泉ずいせん寺の門前を中心に町並が形成され、平野部の水田地帯には散居集落が展開する。八乙女山麓台地に縄文時代中期の閑乗寺かんじようじ遺跡がある。院瀬見の薬師いぜみのやくしおきからは石斧などの石器が採集されている。古代には高瀬たかせ高瀬神社が創建された。また勧学院かんがくいんの地名が残ることから、「延喜式」大学寮条の礪波郡内の大学寮田(墾田地一八町四段二〇〇歩)の比定地とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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