仁賀村(読み)にかむら

日本歴史地名大系 「仁賀村」の解説

仁賀村
にかむら

[現在地名]三良坂町仁賀

田利たり村の北東に位置し、上下じようげ川の支流本村ほんむら川下流域にある南北に細長い村。文和三年(一三五四)八月、室町幕府は岩松頼宥に祇園社領小童ひち(現甲奴郡甲奴町)への「二加四郎左衛門尉并光清左衛門尉等押妨」の停止を命じており(八坂神社文書)、また明徳二年(一三九一)にも同領への「石田一族并広沢・二加・光清以下之輩押妨」の停止を細川頼之に命じている(建内文書)。二加(仁賀)およびそれに隣接する光清みつきよなど在地名を称する武士は、広沢和智氏支配下の者で、一四世紀にはこの地方がすでに和智氏の支配にあったことが知られる。

仁賀村
にかむら

[現在地名]竹原市仁賀町

竹原西野たけはらにしの村の西南に位置し、ほぼ東流する賀茂川の上流域の谷に集落が点在する。西は上三永かみみなが(現東広島市)、南は三津みつ(現豊田郡安芸津町)賀茂郡に属した。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高付されず、竹原西野村に含まれていたらしい。「国郡志下調書出帳」記載の寛永一五年(一六三八)の地詰では、六一町四反余で高七八四・四九八石、うち田方三八町余・五五四石余、畠方一二町九反余・九二石余、屋敷六反余・一〇石余、荒地が九町七反余・一二六石余と内訳が記されるが、分村するのは江戸中期で、正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」は仁賀村として前記と同高を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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