賀茂郡(読み)かもぐん

日本歴史地名大系 「賀茂郡」の解説

賀茂郡
かもぐん

面積:四七九・九四平方キロ
東伊豆ひがしいず町・河津かわづ町・西伊豆にしいず町・賀茂かも村・松崎まつざき町・南伊豆みなみいず

伊豆半島の南部を占め、南東は下田市、北は伊東市、田方たがた郡中伊豆町・天城湯あまぎゆしま町・土肥とい町に接し、東は相模灘に面する。北部を河津川、中部を青野あおの川が南東流し、仁科にしな川は中部を南西流する。

〔古代〕

和名抄」にみえる伊豆国の郡。「延喜式」神名帳の賀茂郡では「カモ」と訓じている。「扶桑略記」天武九年(六八〇)七月条には「別駿河二郡、為伊豆国」とあるが、駿河二郡はのちの田方郡・賀茂郡のことと考えられる。天平二年(七三〇)一〇月の平城宮跡出土木簡には「賀茂郡川津郷湯田里」(「平城宮木簡」三―三〇六九)とみえる。木簡の一部には「加茂郡」と記す例もある(「木簡研究」三―一一頁)。「和名抄」諸本には賀茂郡の郷名として賀茂・月間つくま川津かわづ三島みしま大社おおやしろの五郷がみえる。そのほか平城京跡出土木簡には色日いろひ稲梓いなずさの二郷がみえる。賀茂郡関係の平城京・平城宮跡各出土木簡のほとんどは都へ税として貢進された荒堅魚(鰹の生節か)の荷札で、その税負担者と所属郡郷里が記されている。注目されるのは貢進者の郷比定地と伊豆半島出土の堅魚を煮たと推定される堝形土器の出土遺跡の分布がほぼ一致することである。平城京跡出土木簡からは郷里制下の里についても多数が記され、とくに川津郷では四里(賀美・賀茂・神竹・湯田)がみえる。従来諸国の郷では二、三里が一般的といわれ、当郡でも他郷は一―三里である。古代の郡域は現在の東伊豆町・河津町・南伊豆町・下田市および伊豆諸島に比定される。伊豆諸島は三島郷に比定され、「日本書紀」の推古二八年八月条にみえる「伊豆嶋」をはじめ古くから史書にみえる。海上交通の面では伊豆半島・伊豆諸島ともに畿内と東国との間の海上ルートにあり、各浦は波待ちの湊として利用されたものと考えられる。

領域には古墳時代および奈良時代の遺物が出土する祭祀遺跡も多い。南伊豆みなと盥岬たらいみさき遺跡はゆみはま海岸東側の岬突端に位置し、土師器須恵器の破片や手捏土器が発見されていたが、近年、五世紀代と推定される石製模造品の有孔円板が採集された。また下田市白浜しらはま三穂みほさき遺跡からも石製模造品が発見され、両遺跡は似たような立地で、海の祭祀にかかわると考えられる。集落内の祭祀遺跡としては南伊豆町の日詰ひづめ遺跡・日野ひんの遺跡、河津町の姫宮ひめみや遺跡などがある。日野遺跡からは奈良三彩の小壺が出土しており、律令国家の祭祀への直接的な関与も想定される。


賀茂郡
かもぐん

面積:四〇五・七八平方キロ
大和だいわ町・豊栄とよさか町・福富ふくとみ町・河内こうち町・黒瀬くろせ

郡域の大部分は県中央南寄りの丘陵性山地に位置するが、黒瀬町のみは東広島市を挟んで西南方に飛地となっている。北方は西から高田・双三ふたみ・世羅の各郡に接し、東は御調みつぎ郡、南方は豊田郡・竹原市・東広島市に囲まれる。山地の高さは平均三〇〇―四〇〇メートルで、飛地の黒瀬町域の南側は、付近第一の高峰野呂のろ(八三九・四メートル)の北斜面である。郡域内に源を発する河川には、たか(九二二・一メートル)南麓より東南流する沼田ぬた川、その支流で北西方の高田郡境付近に源流を発する椋梨むくなし川、黒瀬町域ではほぼ西南流する黒瀬川などがあるが、いずれも瀬戸内海に注がれ、その谷々は古くからの交通路となっている。

現賀茂郡域は昭和三一年(一九五六)現豊田郡との大幅な郡域調整を行って確定したもので、それ以前の賀茂郡域は現在の豊田郡安芸津あきつ町・安浦やすうら町・川尻かわじり町、東広島市のほぼ全域、竹原市・呉市の一部と賀茂郡黒瀬町にあたる。現賀茂郡の大部分を占める大和・豊栄・福富・河内の四町は、いずれもそのほとんどが豊田郡に属していた。文献による賀茂郡の初見は「日本後紀」延暦二四年(八〇五)八月一六日条で「安芸国賀茂郡地五十町、賜仲野親王」とある。

〔原始・古代〕

現郡域内には旧石器時代の遺跡は見当らず、縄文時代の遺跡・遺物もごく少ない。わずかに河内町上河内の五塔ごとう寺跡から前期の土器片がある。弥生時代の遺跡には黒瀬町宗近柳国の岩暮むねちかやなくにのいわくれ山竪穴住居跡(後期)がある。古墳時代前期には、首長墓と思われる円墳が現東広島市域に築かれる。


賀茂郡
かもぐん

古代播磨国に存在した郡。「延喜式」武田本神名帳の傍訓はカモである。播磨国の東部に位置し、東は丹波国多紀たき郡・摂津国有馬ありま郡および美嚢みなぎ郡、南は印南いなみ飾磨しかまの両郡、西は神崎かんざき郡、北は多可たか郡に囲まれていたが、平安時代後期に東西に分れ、さらに加東かとう・加西二郡が成立したと考えられる。現在の行政区画で示すと、加東郡・小野市・加西市および西脇市の南西部と多可郡八千代やちよ町の南西部に当たる。郡の中央部を流下する加古川本流が中流域から下流域にかかるところに当たっており、その支流千鳥ちどり川・東条とうじよう川・万勝寺まんしようじ川が東方から、そして普光寺ふこうじ川と下里しもさと川を集めた万願寺まんがんじ川が西方から合流する。これら諸河川の沿岸一帯には連続的な平野の展開がみられるが、平野部の周辺には溜池が散在する。郡域の四周は標高二〇〇―四〇〇メートルの山地からなっているが、とくに郡の北境部において険しい山並が続く。

「播磨国風土記」は賀毛郡と記し、応神天皇の頃かも村につがいの鴨が巣を作って卵を産んだことによるとする。また賀古かこ郡の条に、景行天皇の播磨巡行説話のなかで賀毛郡の山直らの始祖息長命が印南別嬢との媒をしたとある。


賀茂郡
かもぐん

佐渡国三郡の一。「続日本紀」養老五年(七二一)四月二〇日条に雑太さわた郡から羽茂はもち郡とともに分立したとあり、賀母かも郡と記す。「延喜式」神名帳・民部省、二〇巻本「和名抄」のすべてに付訓はない。郡域は国仲くになか平野の東部、おおむね大佐渡の金北きんぽく山と小佐渡のこう(現畑野町)を結ぶ線の東側。郡名は正倉院文書の天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日造東大寺司牒に「賀茂郡殖栗郷五十戸」とみえる。


賀茂郡
かもぐん

「和名抄」には賀茂・せんだ伊保いぼ挙母ころも高橋たかはし山田やまだ賀祢かね信茂しもの八郷をその郡域とし、現在の豊田市南西部を除く部分と西加茂郡東加茂郡北設楽きたしたら郡の設楽町の名倉なぐら地区・稲武いなぶ町・津具つぐ村・豊根とよね村・富山とみやま村と長野県下伊那しもいな根羽ねば村を含む広大な範囲であった。中世にはこの郡域の大部分は足助あすけ庄と呼称されていた。また近世初期に至り北設楽郡分が加茂郡から設楽郡へ編入された。元禄二年(一六八九)の乍恐以口上書申上候御事(北設楽郡史)に「九拾四、五年以前前田嶺筋池田三左衛門様御領分の時、段戸山の内返り水と申す所に金山出来仕り、三左衛門様御家来衆は奉行にて金掘り大分入れ申し、其節加茂郡設楽郡境論出来」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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