賀茂郡
かもぐん
面積:四七九・九四平方キロ
東伊豆町・河津町・西伊豆町・賀茂村・松崎町・南伊豆町
伊豆半島の南部を占め、南東は下田市、北は伊東市、田方郡中伊豆町・天城湯ヶ島町・土肥町に接し、東は相模灘に面する。北部を河津川、中部を青野川が南東流し、仁科川は中部を南西流する。
賀茂郡
かもぐん
面積:四〇五・七八平方キロ
大和町・豊栄町・福富町・河内町・黒瀬町
郡域の大部分は県中央南寄りの丘陵性山地に位置するが、黒瀬町のみは東広島市を挟んで西南方に飛地となっている。北方は西から高田・双三・世羅の各郡に接し、東は御調郡、南方は豊田郡・竹原市・東広島市に囲まれる。山地の高さは平均三〇〇―四〇〇メートルで、飛地の黒瀬町域の南側は、付近第一の高峰野呂山(八三九・四メートル)の北斜面である。郡域内に源を発する河川には、鷹ノ巣山(九二二・一メートル)南麓より東南流する沼田川、その支流で北西方の高田郡境付近に源流を発する椋梨川、黒瀬町域ではほぼ西南流する黒瀬川などがあるが、いずれも瀬戸内海に注がれ、その谷々は古くからの交通路となっている。
現賀茂郡域は昭和三一年(一九五六)現豊田郡との大幅な郡域調整を行って確定したもので、それ以前の賀茂郡域は現在の豊田郡安芸津町・安浦町・川尻町、東広島市のほぼ全域、竹原市・呉市の一部と賀茂郡黒瀬町にあたる。現賀茂郡の大部分を占める大和・豊栄・福富・河内の四町は、いずれもそのほとんどが豊田郡に属していた。文献による賀茂郡の初見は「日本後紀」延暦二四年(八〇五)八月一六日条で「安芸国賀茂郡地五十町、賜仲野親王」とある。
〔原始・古代〕
現郡域内には旧石器時代の遺跡は見当らず、縄文時代の遺跡・遺物もごく少ない。わずかに河内町上河内の五塔寺跡から前期の土器片がある。弥生時代の遺跡には黒瀬町宗近柳国の岩暮山竪穴住居跡(後期)がある。古墳時代前期には、首長墓と思われる円墳が現東広島市域に築かれる。
賀茂郡
かもぐん
古代播磨国に存在した郡。「延喜式」武田本神名帳の傍訓はカモである。播磨国の東部に位置し、東は丹波国多紀郡・摂津国有馬郡および美嚢郡、南は印南・飾磨の両郡、西は神崎郡、北は多可郡に囲まれていたが、平安時代後期に東西に分れ、さらに加東・加西二郡が成立したと考えられる。現在の行政区画で示すと、加東郡・小野市・加西市および西脇市の南西部と多可郡八千代町の南西部に当たる。郡の中央部を流下する加古川本流が中流域から下流域にかかるところに当たっており、その支流千鳥川・東条川・万勝寺川が東方から、そして普光寺川と下里川を集めた万願寺川が西方から合流する。これら諸河川の沿岸一帯には連続的な平野の展開がみられるが、平野部の周辺には溜池が散在する。郡域の四周は標高二〇〇―四〇〇メートルの山地からなっているが、とくに郡の北境部において険しい山並が続く。
「播磨国風土記」は賀毛郡と記し、応神天皇の頃鴨村につがいの鴨が巣を作って卵を産んだことによるとする。また賀古郡の条に、景行天皇の播磨巡行説話のなかで賀毛郡の山直らの始祖息長命が印南別嬢との媒をしたとある。
賀茂郡
かもぐん
佐渡国三郡の一。「続日本紀」養老五年(七二一)四月二〇日条に雑太郡から羽茂郡とともに分立したとあり、賀母郡と記す。「延喜式」神名帳・民部省、二〇巻本「和名抄」のすべてに付訓はない。郡域は国仲平野の東部、おおむね大佐渡の金北山と小佐渡の鴻ノ瀬(現畑野町)を結ぶ線の東側。郡名は正倉院文書の天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日造東大寺司牒に「賀茂郡殖栗郷五十戸」とみえる。
賀茂郡
かもぐん
「和名抄」には賀茂・仙
・伊保・挙母・高橋・山田・賀祢・信茂の八郷をその郡域とし、現在の豊田市南西部を除く部分と西加茂郡・東加茂郡、北設楽郡の設楽町の名倉地区・稲武町・津具村・豊根村・富山村と長野県下伊那郡根羽村を含む広大な範囲であった。中世にはこの郡域の大部分は足助庄と呼称されていた。また近世初期に至り北設楽郡分が加茂郡から設楽郡へ編入された。元禄二年(一六八九)の乍恐以口上書申上候御事(北設楽郡史)に「九拾四、五年以前前田嶺筋池田三左衛門様御領分の時、段戸山の内返り水と申す所に金山出来仕り、三左衛門様御家来衆は奉行にて金掘り大分入れ申し、其節加茂郡設楽郡境論出来」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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