日本歴史地名大系 「三良坂町」の解説 三良坂町みらさかまち 広島県:双三郡三良坂町三良坂町[現在地名]三良坂町三良坂近世、石見路(赤名越)の三次(みよし)―吉舎(きさ)(現吉舎町)両宿の中間の間宿となっていた宿場町。村役人とは別に町年寄以下の町役人が置かれていた。町の東半分を上市(かみいち)、西半分を下市(しもいち)とよぶ。中世、三良坂の商業の中心は、備後南部から延びる道が粘(ねば)ヶ峠を越えて三良坂へ入り、北の地(じび)庄(現庄原市付近)と東の田総(たぶさ)庄(現甲奴郡総領町)に分岐する所にあたる沖江(おきえ)にあり、今も古市(ふるいち)の小地名が残る。古市から馬洗(ばせん)川沿いの上市・下市へ商業の中心が移動し、三良坂町が形成されるのは中世末期ないし近世初頭とみられる。「閥閲録」所収の天正三年(一五七五)八月一三日付の岡六兵衛家文書に「於三郎坂一所九日市事」とみえるが、この地名は「国郡志下調書出帳」が三良坂町の市日を三日、一三日、二三日、九日、一九日、二九日と記しており、中世の「三日市」と「九日市」に由来するものとみられる。 三良坂町みらさかちよう 広島県:双三郡三良坂町面積:四三・三三平方キロ三次(みよし)市によって三つに分割された双三郡の東部分に位置し、南は同郡吉舎(きさ)町、西は三次市に接する。町の南部を東南から西北へ馬洗(ばせん)川が流れ、北部を東から西へ蛇行しながら流れる上下(じようげ)川と三次市との境で合流する。町域は江戸時代を通じて広島藩領で、灰塚(はいづか)村が蔵入地、茅瀬(かいぜ)村が家老三原浅野家給知で、他は明知・給知入交じりであった。馬洗川に沿って尾道と石見地方を結ぶ石見路(赤名越)が通る。この道は現在も国道一八四号として、町の中心である三良坂の市街地が道路沿いに形成され、そこから庄原市や甲奴(こうぬ)郡総領(そうりよう)町への道路が延びる。また馬洗川に平行して福山市と三次市を結ぶ国鉄福塩線も通る。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by