朝日日本歴史人物事典 「伊与来目部小楯」の解説
伊与来目部小楯
5世紀後半の豪族。山部連の祖。もともとは伊予国天山郡久米郷(松山市久米付近)を本拠とし,朝廷に出仕,大王の身辺に奉仕した久米部集団の長。清寧天皇の時代,大嘗祭の供奉料を徴収するため,播磨の縮見屯倉(三木市志染町付近)に遣わされた。これは,大王の供膳調理も担当した久米部としての職務にちなむものであろう。そのさい,屯倉を管理する忍海部細目の新築祝いの宴に招かれ,そこで,市辺押磐皇子のふたりの遺児(弘計王,億計王。のちの顕宗,仁賢両天皇)を発見,直ちに朝廷に報じた。この功績により,「山官」として山部(山守部)を統率,管理することになり,山部連の姓を賜った。この二王発見の物語は,伊予の久米部集団の首長が,山部連として王権に奉仕することになった起源,由来を説いたものであり,山部集団が,新嘗(大嘗)祭において,山林からの貢納を「山幸」として確保,献上していたことを窺わせる。<参考文献>山尾幸久『日本古代王権形成史論』
(遠山美都男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報