伊孑志村(読み)いそしむら

日本歴史地名大系 「伊孑志村」の解説

伊孑志村
いそしむら

[現在地名]宝塚市伊孑志一―四丁目・末広町すえひろちよう東洋町とうようちよう中州なかす一―二丁目・南口みなみぐち一―二丁目・逆瀬川さかせがわ一―二丁目・寿楽荘じゆらくそう宝松苑ほうしようえん梅野町うめのちよう武庫山むこやま一―二丁目・湯本町ゆもとちよう月見山つきみやま一―二丁目・長寿ちようじゆおかひかりおか二丁目・紅葉もみじおか・伊孑志

武庫郡に所属。武庫川と逆瀬川との合流地点に立地し、武庫川を挟んで北は川面かわも村、東は川辺かわべ安倉あくら村。北西有馬ありま生瀬なまぜ(現西宮市)。西宮から中山なかやま寺への巡礼道が通る。文亀二年(一五〇二)一二月一三日の伊志二郎衛門信弘屋敷売渡状案(満願寺文書)に「伊(孑)志庄」とみえ、庄内の屋敷一所は二郎衛門先祖相伝の私領で、直米六石五斗で芳蔵主に永代売渡している。慶長国絵図には「伊志村」とあり高一四三石余。正保郷帳では本高は変わらず、ほかに新田高四三石余。寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)では高一八六石余、ほかに新田二四石余など。天和―貞享(一六八一―八八)頃の尼崎領内高・家数・人数・船数等覚(金蓮寺旧蔵文書)によると高一八六石余、ほかに高四七石余。享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では高二四九石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳によると幕府領建部与十郎預地。同年尼崎藩領となり宝永八年(一七一一)幕府領、文政一一年(一八二八)尼崎藩領になり幕末に至る(宝塚市史)

逆瀬川と武庫川の合流地点に加えて武庫川が大きく湾曲する地点にあたるため、再三水害が起きた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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