日本歴史地名大系 「宝塚市」の解説 宝塚市たからづかし 面積:一〇一・八〇平方キロ(境界未定)県の南東端近くに位置し、伊丹市・川西市・川辺(かわべ)郡猪名川(いながわ)町・三田市・神戸市・西宮市と接する。南北に長い市域で南部の平野部は都市化しているが、市域の大半を占める北部は山間地である。西部を武庫(むこ)川が流れ、その水系として上流左岸には佐曾利(さそり)川・羽束(はつか)川、波豆(はず)地区には神戸市の水源千刈(せんがり)貯水池がある。中流左岸には一後(いちご)川・荒神(こうじん)川・大堀(おおぼり)川・勅使(てし)川・天神(てんじん)川・天王寺(てんのうじ)川、中流右岸に支多々(したた)川・逆瀬(さかせ)川・仁(に)川などがあり、東部には猪名川水系の最明寺(さいみようじ)川が流れる。南部をほぼ東西に中国自動車道・国道一七六号が通り、中国自動車道には宝塚インターチェンジがある。南部を東西にJR福知山線が走るほか阪急電鉄が宝塚駅を起点に東西に宝塚線、南北に今津(いまづ)線が通る。〔原始〕市域は六甲(ろつこう)山地の南北丘陵および丘陵南部の山麓を占め、遺跡は武庫川が平地部に出る東・西両岸の山麓部に集中する。旧石器時代・縄文時代では香合新田(こうばこしんでん)から有舌尖頭器・黒曜石製石鏃、南部の安倉(あくら)地区から石鏃が採集されている程度で、遺構の確認された遺跡はない。弥生時代中期の遺跡は甲(かぶと)山東麓の五(ご)ヶ山(やま)遺跡や仁川高台(にがわたかだい)遺跡など、西宮市域に連なる遺跡がある。旧清(もときよし)遺跡の基壇下層から中・後期の土器が出土し、高地性集落の存在が想定されている。中山荘園(なかやまそうえん)出土の外縁付鈕式四区袈裟襷文銅鐸二口や売布(めふ)神社境内遺跡出土の銅鏃などが注目される。古墳の分布は顕著で、前期の万籟山(ばんらいさん)古墳や長尾山(ながおやま)古墳のほか、安倉高塚(あくらたかつか)古墳から出土した呉の年号である赤烏七年(二四四)銘神獣鏡は重要である。後期は長尾山丘陵南麓に約三〇〇基の大群集墳がある。そのなかには中山寺(なかやまでら)古墳などの巨大石室墳、終末期の八角形墳と推定される中山荘園古墳、あるいは複室構造形式の横穴式石室などが含まれる。なお中山寺境内に所在する舟形石棺などのように中期にさかのぼる古墳が含まれている可能性がある。〔古代〕市域は摂津国川辺郡の北西部、武庫郡北部、有馬(ありま)郡南東部からなる。武庫川左岸の市域南東部は「和名抄」の河辺(かわべ)郡山本(やまもと)郷、右岸の市域南部は武庫郡石井(いしい)郷に比定される。北部の一部は有馬郡羽束(はつかし)郷に属したようで、武庫郡賀美(かみ)郷を同川左岸小浜(こはま)以西の地に求める説もある。条里地割は右岸は武庫北条、左岸の北東部は川辺北条であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宝塚市」の意味・わかりやすい解説 宝塚〔市〕たからづか 兵庫県南東部,武庫川中流域に広がる市。西宮市の北に位置する。 1954年宝塚町と良元村が合体して市制。 55年長尾,西谷の両村を編入。中心市街地は 1886年に岡田竹四郎が武庫川右岸に温泉を開発し宝塚温泉と名づけたのが始り。次いで 1910年に敷設された箕面有馬電気軌道 (現阪急電鉄) がこの温泉の対岸に宝塚新温泉を開発し,遊園地を設置,少女歌劇 (→宝塚歌劇団 ) を上演したことが成功し,観光都市への道を開いた。 56年にはボーリングに成功し湧出量が増加,阪神地方に最も近い温泉郷として発展。 1960年代からは周囲の山地の住宅地化が大規模に進んだ。東部の中山寺は西国三十三所第 24番の札所。中山荘園古墳は史跡に指定されている。山本は植木,花卉の産地。 JR福知山線が通り,阪急電鉄宝塚線,今津線の起点。 95年の兵庫県南部地震では大きな被害を受けた。面積 101.80km2(境界未定)。人口 22万6432(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by