朝日日本歴史人物事典 「住友友芳」の解説
住友友芳
生年:寛文10(1670)
江戸中期の鉱業家。豪商住友家の第4代。友信とねゑの長男。幼名は千代之助,友栄。貞享2(1685)年家督相続。住友家では第3代から吉左衛門を称した。相続の前年,住友両替店では江戸為替の為替金不納という不慮の事故が起こり,両替店は一時閉店し,同店の泉屋平兵衛(友信の実弟)は身代取潰しとなるなど,非常な事態に陥っていた。当時,住友家が経営していた備中国川上郡吹屋町(岡山県川上郡成羽町)の吉岡銅山は,幕府による運上金の増徴,湧水による経費の増大などが原因となって,経営は不振を極めていた。 このようなとき,元禄3(1690)年に伊予国宇摩郡別子山村(愛媛県宇摩郡別子山村)において別子銅山を発見し,翌4年から幕府の許可を得て採掘を開始した。これは住友のドル箱となった。のち明治15(1882)年に制定された住友家法で「予州別子山ノ鉱業ハ万世不朽ノ財本ニシテ,斯業ノ盛衰ハ我一家ノ興廃ニ関シ重且大ナル他ニ比スベキモノナシ」と述べているところからも,住友の事業経営における別子銅山の重要性がうかがわれる。また同じ家法の中で,「我営業ハ確実ヲ旨トシ,時勢ノ変遷,理財ノ得失ヲ計リテ之ヲ興廃シ,苟クモ浮利ニ趨リ軽進ス可ラザル事」となし,「浮利を追わぬ」堅実経営の基調を明示している点からも,明治期において鉱業財閥として成長した住友財閥の歴史的特質を確認することができる。友芳が住友中興の祖といわれるのも,そのためである。 元禄15年大坂屋久左衛門と共に出府して,銅山振興策を具申。友芳没後の享保6(1721)年,第5代友昌のとき,別子銅山(全13カ条から成る)ならびに銅貿易の窓口であった長崎店(全15カ条)に対して家法書を令達し,家業経営の態勢強化に努めた。それは景気高揚期の元禄期から不況の享保期に入った時代背景によって影響されたところが多い。<参考文献>作道洋太郎編『住友財閥』
(作道洋太郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報