改訂新版 世界大百科事典 「住友家」の意味・わかりやすい解説
住友家 (すみともけ)
近世の商家。住友財閥の前身。住友家は,2代友以(とももち)が京都で銅商泉屋を興し,1620年代から大坂を本拠として銅の精錬・輸出と外国品の輸入という家業の基礎を固め,3代友信,4代友芳の時代に諸銅山の稼行,江戸・長崎出店の設置,両替・為替業へ進出して,隆盛期を迎えた。また事業上の担保として家屋敷数十ヵ所を所有するとともに質地の流れ込んだ山本新田などの田畑を経営し,幕末には別子銅山の近辺で飯米用の新田を開発した。
銅精錬・銅輸出・諸貨物輸入業
友以の実父蘇我理右衛門は,粗銅中に含まれる銀を抽出する南蛮吹の技術を開拓した銅精錬業者で,1630年ごろ大坂に勃興した同業者たちはこの技術をとり入れた。60年代から産銅が急増し,貿易政策と相まって銅輸出が増えはじめ,泉屋は同業者の首位にあって活躍した。90年代には産銅が頂点に達し,需要の伸張に追いつかず銅不足となったので,幕府は銅座を設けて銅の流通を統制した。銅座は近世に3度設置され,銅は政策上出血輸出を強いられた。精錬業者は大坂に限られ,その数も減少していったが,泉屋は終始首位を占めた。友以の時代から外国品の輸入も行ったが,1672年(寛文12)貨物市法商売法の制定後まもなく,銅輸出業者の貨物輸入に制約が加えられたため,輸入から手をひき,仲買をしばらく続けた。のち復活し,泉屋組を結成して輸入貿易を行ったが,1740年(元文5)廃止した。
鉱山業
1670-1700年ごろ,阿仁,鴇(とき),立石,幸生,足尾,栗山などの諸銅山,十和田鉛山などを手がけた。1681年(天和1)備中吉岡銅山の稼行を請け負い,大水抜工事を完成して銅山の再生に成功し,この経験を生かして91年(元禄4)別子銅山の稼行権を獲得した。別子銅山は伊予国宇摩郡別子山村(幕領)に坑口をもつが,同じ鉱脈は峰越えの新居郡立川村(西条藩領)で以前から他の山師が採掘していた。やがて別子・立川両銅山は地中で抜き合ったので,立川村は近村とともに上知され,のちに泉屋が両銅山を一手稼行することになった。別子銅山は1698年に1500tという近世最高の産銅高を記録したが,のち漸減し,18世紀中葉以降は立川と合わせても600tに達することはあまりなかった。このころ全国の銅山が疲弊し,休山するものも多くなるなかで,別子は秋田,南部の銅山とともに輸出用の御用銅に指定され,それは国内用の地売銅より安価で,時代が下がるにつれてその差は拡大したから,泉屋にとって別子銅山の維持は大きな課題となった。
金融業
1670年に分家が十人両替に選ばれるなど,金融業との関係は古いが,18世紀中期以降比重が増大した。1746年(延享3)江戸浅草で札差店を開き,のち別家2店と合わせて3店に増えた。1805年(文化2)から江戸出店で本家当主の名前で両替業を営み本両替仲間に入った。大坂でも諸藩の蔵元,掛屋を務め,1819年(文政2)には銅座掛屋を引き受けた。分家,別家の両替業も本家との強い連係関係にあった。明治維新後残存した藩債は26藩,18万両余に上った。
系譜
初代政友は武士の出で,涅槃宗という仏教新宗派の僧となったが,宗派の衰退のため僧籍を離れて薬種,出版を業とし,在俗の宗教者として知友や子孫に大きな影響を与えた。政友の姉と銅精錬業蘇我理右衛門との間の子友以(1607-62)は,政友の娘の婿養子となって住友泉屋を興した。のち政友の男系が絶えたため,友以系では政友を初代と数えている。友以の通称は理兵衛,その子3代友信(1646-1706)から吉左衛門を称し,4代友芳,5代友昌,6代友紀に至る。7代万次郎(のち万十郎)友輔,8代吉次郎友端(ともただ),9代吉次郎(のち甚兵衛)友聞(ともひろ),10代吉次郎友視,11代吉次郎友訓(とものり)で,12代吉左衛門友親のとき明治維新となる。13代吉左衛門友忠早世後,母登久が14代を相続し,まもなく友忠の妹の配として15代吉左衛門友純(ともいと)を迎え,16代はその次男の吉左衛門友成である。現当主は17代吉左衛門芳夫(友成の弟元夫の長男で,友成の養嗣子となる)。
執筆者:今井 典子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報