佐瀬村(読み)さぜむら

日本歴史地名大系 「佐瀬村」の解説

佐瀬村
さぜむら

[現在地名]市原市佐是さぜ

牛久うしく村の北西に位置し、養老ようろう川が流れる。佐是ともみえ、「和名抄」の上総国海上うなかみ郡佐是郷、中世の佐是郡の遺称地とされる。武城たけぎうち曲輪くるわを含む一帯を中世に築かれた城跡とみて佐是城とし、養老川に近い主郭を中心に北西に北郭、同じく南に二の郭、南西に三の郭、さらに南西に外郭が配されているという。主郭に北接してほりうちの集落がある。康正二年(一四五六)上総攻略を進める武田信長が子信高の第三子国信を佐是に置いたという(上総武田氏系図)。北郭の明性みようしよう(妙性院)が天文一九年(一五五〇)の創立と伝えることから、国信による築城はこの頃ともされる。同二一年里見勢の攻撃を受けた椎津しいづ城主武田信政への援軍で国信は討死したという。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に佐瀬村とみえ、高六三八石。寛永二年(一六二五)知行宛行状に旗本小田切領として上総佐是領友田村一六五石とあるが、友田の所在地は未詳


佐瀬村
させむら

[現在地名]多良見町佐瀬郷させごう

伊岐力いきりき村の北西に位置し、北部は内海に臨む。百石ひやつこく川・五十石ごじつこく川が流れる。南部のこと岳に琴尾神社が祀られ、江戸時代には烽火台が置かれた。海沿いの往還筋に一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。大村領の向地むかえちに属する。伊岐力村より分立したという。慶長高帳では蔵入地がなく、大村給人の知行となっている。慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録に佐瀬村とみえ、高一三〇石余で、田九町八反余・畠三町、物成七六石余。同一七年の総検地では高二〇五石余とあるが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は三九石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。慶長国絵図では佐瀬として高一三九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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