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信楽庄(読み)しがらきのしよう

日本歴史地名大系 「信楽庄」の解説

信楽庄
しがらきのしよう

信楽山地の西方大戸だいど(田上川)上流の谷間に位置した近衛家領庄園。信楽郷ともみえる。「輿地志略」は宮町みやまち勅旨ちよくし神山こうやま小川おがわ多羅尾たらお柞原ほそはら黄瀬きのせまきを信楽八村として庄域にあて、朝宮あさみや野尻のじりは信楽の外村とする。信楽は奈良時代以来良材を産した杣山として知られ、やがて当地に形成された信楽庄も長く杣の庄園しての色彩を有した。「康平記」康平五年(一〇六二)一月一三日条に、春日祭上卿雑事賦課に際し屯食八具のうち二具を出すべき摂関家の家領庄園として信楽御庄とみえる。こうした摂関家とのかかわりは以後鎌倉時代にかけての諸記録にも散見する(「猪隈関白記」正治二年一月一〇日条など)。また摂関家ゆかりの宇治平等院の諸行事においても「信楽庄住人」が檜物工として徴用され(「中右記」嘉保二年七月一二日条など)、康和四年(一一〇二)七月には京都六勝寺の一つ尊勝寺の丈六仏九体の造仏にあたって日野牧かき御園(現八日市市)などとともに信楽にも葩木の調進が賦課されることもあった(「丈六仏造営文書」京都大学所蔵兵範記久安六年八月巻裏文書)。いずれも信楽庄民の杣工としての側面をうかがわせるものといえよう。近衛家領の全貌を記載した建長五年(一二五三)の近衛家所領目録(近衛家文書)から、同家が本家として庄務権を進退する家領の一つ信楽庄が高陽院領として伝領されてきたことが判明し、預所は春日局であった。正応三年(一二九〇)の宝帳布所進諸庄目録(同文書)では信楽から二反が進められている。

平安時代末から鎌倉時代初期にかけての信楽庄は国境を越えて隣接する奈良東大寺領と激しい相論を展開した。保安四年(一一二三)九月一二日の明法博士勘状案(東大寺文書)によれば、天永三年(一一一二)内蔵寮が伊賀国阿拝郡内真木山まきやま(現三重県阿山郡阿山町)住人の解状と寺家公験に基づき信楽杣の相論を停止したという一件があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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