近衛家(読み)このえけ

改訂新版 世界大百科事典 「近衛家」の意味・わかりやすい解説

近衛家 (このえけ)

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖基実の殿第に由来するが,また近衛大路に面する宮門号にちなんで陽明ともいう。平安時代初期,藤原良房が人臣で初めて摂政となって以来,摂政・関白は藤原氏北家の嫡流に伝えられ,ついでその曾孫師輔の九条流に,さらに師輔の孫道長の御堂流に定着し,藤原氏長者も摂関の兼摂するところとなった。こうして平安時代末期の1158年(保元3)には,道長の6世の孫基実が父忠通の譲りにより16歳の若さで関白,氏長者となり,ついで摂政に任ぜられたが,基実が24歳で急死したため,弟の基房が摂政となり,さらに関白に任ぜられた。しかしこの間,後白河院と平清盛の対立が激化し,ついに1179年(治承3)清盛は武力をもって院政を停止し,基房の関白を罷免して,基実の嫡男で清盛の女盛子を養母とする基通を関白とした。基通はさらに摂政に任ぜられたが,平家が滅亡すると,源頼朝は平家の縁人基通をしりぞけ,基房の弟兼実を摂政,氏長者に推挙した。その後,政情の変転するなかで基通が関白に復帰し,ついで兼実の男良経が摂政となり,その没後は基通の男家実が摂政に任ぜられ,基通の近衛,兼実の九条の二流分立の形勢が定まった。その後さらに近衛家から鷹司家が,九条家から二条,一条両家が分立し,五摂家と併称された。江戸時代の初め,近衛家17代信尹に至って嗣子がなかったため,後陽成天皇の第4皇子で,信尹の妹前子を母とする信尋が入って家を継いだ。幕末維新期に,関白忠凞は島津藩と手を結んで国事に奔走し,明治に入ってその孫篤麿は公爵を授けられ,貴族院議長となり,活発な政治活動を行い,その男文麿も昭和10年代3度にわたり総理大臣となって内閣を組織した。

近衛家は,九条家の分立に際しても,後白河院の強力な庇護によって摂関家領の大半を保持することができたが,その大体は1253年(建長5)作成の《近衛家所領目録》に見える。その内訳は,大番領や散所を除いて153ヵ所にのぼり,(1)本所として荘務を進退する所領60,(2)一定の得分を収取する所領50,(3)在地領主を請所とする所領20,(4)その他23ヵ所から成る。なかでも日向,大隅,薩摩3国にひろがる島津荘は有名で,近衛家と島津家との長年にわたる親交の背景ともなった。これらの家領は鷹司家の分立や,元弘の乱前後の近衛家の分裂などにより著しく減少したが,戦国時代の荘園解体期に入っても,畿内近国の所領は同家の経済に重要な役割を果たした。江戸時代に入って,幕府は摂津国伊丹村その他で1797石余を近衛家に知行させたが,その後加増して幕末には2862石余に達し,五摂家中最高の石高を誇った。

近衛家は宮廷の政治・文化の有力な担い手として多くの典籍や記録,文書を伝蔵し,その間応仁の大乱などで散逸したものも多いといわれるが,現在も国宝の《御堂関白記》を始め,貴重なものが京都の陽明文庫に尊蔵されている。
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百科事典マイペディア 「近衛家」の意味・わかりやすい解説

近衛家【このえけ】

藤原氏北家(ほっけ)の嫡流。五摂家(ごせっけ)の筆頭。家号は藤原忠通の子である始祖基実(もとざね)の殿第(でんてい)に由来する。歴代摂政関白に任ぜられた家柄で,また学者を多く出した。南北朝時代,経忠が南朝に走り,いとこ基嗣が京都に残って家を継いだ。明治期に至って公爵(こうしゃく)に列せられた。
→関連項目穴太荘伊作荘井上八千代猪隈関白記入来院浮田荘榎坂郷太田荘小弓荘革島荘椋橋荘後法興院記島津荘橘御薗田仲荘垂水東牧・垂水西牧富田荘長岡荘日置荘檜物荘陽明文庫

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近衛家」の意味・わかりやすい解説

近衛家
このえけ

藤原北家(ほっけ)の嫡流。平安末期の法性寺関白藤原忠通(ただみち)の長子基実(もとざね)を始祖とする。近衛の称はその邸が近衛通りに面していたことにちなみ、基実の子基通(もとみち)のときより近衛氏を称する。家実(いえざね)を経て兼経(かねつね)のとき弟の兼平(かねひら)が鷹司(たかつかさ)氏を興し、ここに近衛家は2流に分かれ、九条・二条・一条の3氏と並んで五摂家と称され、その筆頭に位置した。一名「陽明」とも称されるが、これは禁裏(きんり)の陽明門東西に通じているのが近衛通りであることにちなむ。17代信尹(のぶただ)には継嗣(けいし)なく、信尹の妹前子(さきこ)の所生になる後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の第4皇子信尋(のぶひろ)が入って18代となった。江戸時代の家領は2862石余。1884年(明治17)華族に列し、公爵を授けられた。

[橋本政宣]

近衛家領

平安時代末、摂関家領をほぼ惣領(そうりょう)した藤原忠通は、その大部分を長子基実に、一部を女子聖子(せいし)(皇嘉門院(こうかもんいん))に譲り、基実が伝領した所領はその没後は妻白河北政所(きたのまんどころ)(平清盛(たいらのきよもり)女)が管領し、のち長子基通に伝わり、近衛家領が成立する。その概要は、1253年(建長5)10月作成の『近衛家所領目録』にみえ、大番領・散所などを除いて、153か所の所領を載せる。その内訳は、(1)私的な別相伝地14、(2)本所として一定の得分を収取する所領50、(3)進止(しんし)権を保留して有縁の寺社に寄進した所領5、(4)基本的な年貢収取権を寺社に寄進した所領4、(5)本所として荘務を進退する所領60、(6)在地領主を請所(うけしょ)として一定の得分権をもつ所領20からなる。なお(1)のうち7か所は鷹司家が近衛家から分立するに伴い、鷹司家領となっていく。その後、南北朝期に入り皇統の分裂は公家(くげ)の諸家にも大きく影響し、近衛家は家基(いえもと)後に家平(いえひら)流、経平(つねひら)流の2流が家門と家領の管領をめぐって対抗したが、家領総体の主要部分は経平流の基嗣(もとつぐ)へと伝領されたようである。基嗣は1336年(延元1・建武3)11月に北朝から摂津国榎並庄(えなみのしょう)以下25か所の所領の安堵(あんど)を受けている。ただしこれが当時の近衛家領のすべてであったともいいがたく、1478年(文明10)から1505年(永正2)にわたる『近衛家雑事要録』によれば、荘園(しょうえん)解体期においても、近衛家領は40か所に前後する当知行(とうちぎょう)所領を維持していたが、時期を逐(お)うにしたがいその衰退は覆うべくもなく、1524年(大永4)には不知行が当知行を数倍も上回る状況と化した。16世紀の後半、石高(こくだか)知行制が成立するや、近衛家も織田・豊臣(とよとみ)2氏から知行地を与えられ、江戸時代に入り1601年(慶長6)徳川氏より1795石余の知行を与えられた。その後2862石余に達し五摂家中最高の石高を保持した。

[橋本政宣]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「近衛家」の解説

近衛家
このえけ

藤原北家の嫡流。五摂家の一つ。平安末期藤原忠通の嫡男基実(もとざね)を祖とする。基実と嫡男基通はともに平清盛の女婿で,その後援により摂関・氏長者となるが,源平内乱期に基実の弟の基房・兼実らとしばしば交替し,藤原嫡流は基通・兼実(九条家)の2流にわかれた。近衛家の呼称は基通の住居近衛殿にちなむ。基通の孫兼経の代に弟兼平(鷹司(たかつかさ)家)が分立,九条家から分立した二条・一条両家とともに五摂家となる。江戸初期に後陽成天皇の皇子信尋(のぶひろ)(母は信尹(のぶただ)の妹前子)が17代信尹の養子となり,以後天皇家とたびたび姻戚関係を結んだ。維新後,篤麿(あつまろ)のとき公爵。嫡男文麿(ふみまろ)は昭和期に3次にわたり内閣を組織した。伝家の資料は財団法人陽明文庫蔵。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近衛家」の意味・わかりやすい解説

近衛家
このえけ

藤原氏の嫡流。五摂家の一つとして代々摂政,関白に任じられることが多かった。平安時代末期の関白藤原忠通の子基実に始り,その子基通以来近衛氏を称した。基通は鎌倉時代初期に,親幕府派貴族の九条兼実 (基実の弟) と対抗した。後世には書画,詩歌,茶道などにすぐれた人物を出した。信尹 (のぶただ) ,信尋 (のぶひろ) ,家煕 (いえひろ) などは特に著名である。明治維新後,篤麿は華族令によって公爵を授けられ,貴族院議長,東亜同文会会長となり,活発な政治活動を行なった。篤麿の子文麿 (ふみまろ) は,貴族院議長を経て,1937年以来3度首相となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「近衛家」の解説

近衛家
このえけ

藤原北家の嫡流で,五摂家の筆頭
源頼朝は摂関家の勢力をそぐため,藤原忠通の3男兼実を摂政として九条家を始め,長男基実の系統を近衛家と呼んで摂関家を二分した。鎌倉中期,さらに近衛家から鷹司 (たかつかさ) 家が分立。戦国時代には信尹 (のぶただ) を出す。明治時代に至り公爵に列せられた。

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世界大百科事典(旧版)内の近衛家の言及

【穴太荘】より

…当初から摂関家領であったらしい。1253年(建長5)の近衛家所領目録によれば,近衛家自身が荘園支配の実際的な諸権限(荘務権)を握っていた。またその預所(あずかりしよ)は摂関家の随身下毛野氏で,同氏は代々近衛家を本所にあおぎながら,永らく荘を相伝知行した。…

【伊丹[市]】より

…1669年(寛文9)の伊丹郷絵図でも短冊形の町割りが認められる。豊臣領,幕府領をへて1661年伊丹村とほか10ヵ村1402石3斗が近衛家領となり,伊丹は部分的変動はあるがおおむね幕末まで近衛家領であった。1617年(元和3)駅所を公認され,また幕府領年貢米の蔵所として年貢米の集散地となり,すでにあった伊丹酒造の発展を原料,運送の面で助けた。…

【田仲荘】より

…11世紀の成立と推定される摂関家領荘園で,1110年(天永1)藤原忠実(ただざね)によって得分(とくぶん)の一部が日吉神社の法華八講料にあてられている。鎌倉時代には近衛家領となったが,近衛家は荘務権を有せず,領家職(りようけしき)は僧円基(近衛基通の子),僧慈禅(近衛兼経の弟)を経て,その法系である浄土寺門跡(もんぜき)が室町末期にいたるまで伝領した。12世紀後半の56年(保元1)以降,紀ノ川南岸の耕地をめぐって荒川荘との間に激しい堺相論が起こった。…

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