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近衛家 このえけ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

近衛家
このえけ

藤原氏の嫡流。五摂家一つとして代々摂政,関白に任じられることが多かった。平安時代末期の関白藤原忠通の子基実に始り,その子基通以来近衛氏を称した。基通は鎌倉時代初期に,親幕府派貴族の九条兼実 (基実の弟) と対抗した。

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百科事典マイペディアの解説

近衛家【このえけ】

藤原氏北家(ほっけ)の嫡流。五摂家(ごせっけ)の筆頭。家号は藤原忠通の子である始祖基実(もとざね)の殿第(でんてい)に由来する。歴代摂政関白に任ぜられた家柄で,また学者を多く出した。
→関連項目穴太荘伊作荘井上八千代猪隈関白記入来院浮田荘榎坂郷太田荘小弓荘革島荘椋橋荘後法興院記島津荘橘御薗田仲荘垂水東牧・垂水西牧富田荘長岡荘日置荘檜物荘陽明文庫

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世界大百科事典 第2版の解説

このえけ【近衛家】

藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖基実の殿第に由来するが,また近衛大路に面する宮門号にちなんで陽明ともいう。平安時代初期,藤原良房が人臣で初めて摂政となって以来,摂政・関白は藤原氏北家の嫡流に伝えられ,ついでその曾孫師輔の九条流に,さらに師輔の孫道長の御堂流に定着し,藤原氏長者も摂関の兼摂するところとなった。こうして平安時代末期の1158年(保元3)には,道長の6世の孫基実が父忠通の譲りにより16歳の若さで関白,氏長者となり,ついで摂政に任ぜられたが,基実が24歳で急死したため,弟の基房が摂政となり,さらに関白に任ぜられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

近衛家
このえけ

藤原北家(ほっけ)の嫡流。平安末期の法性寺関白藤原忠通(ただみち)の長子基実(もとざね)を始祖とする。近衛の称はその邸が近衛通りに面していたことにちなみ、基実の子基通(もとみち)のときより近衛氏を称する。家実(いえざね)を経て兼経(かねつね)のとき弟の兼平(かねひら)が鷹司(たかつかさ)氏を興し、ここに近衛家は2流に分かれ、九条・二条・一条の3氏と並んで五摂家と称され、その筆頭に位置した。一名「陽明」とも称されるが、これは禁裏(きんり)の陽明門を東西に通じているのが近衛通りであることにちなむ。17代信尹(のぶただ)には継嗣(けいし)なく、信尹の妹前子(さきこ)の所生になる後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の第4皇子信尋(のぶひろ)が入って18代となった。江戸時代の家領は2862石余。1884年(明治17)華族に列し、公爵を授けられた。[橋本政宣]

近衛家領

平安時代末、摂関家領をほぼ惣領(そうりょう)した藤原忠通は、その大部分を長子基実に、一部を女子聖子(せいし)(皇嘉門院(こうかもんいん))に譲り、基実が伝領した所領はその没後は妻白河北政所(きたのまんどころ)(平清盛(たいらのきよもり)女)が管領し、のち長子基通に伝わり、近衛家領が成立する。その概要は、1253年(建長5)10月作成の『近衛家所領目録』にみえ、大番領・散所などを除いて、153か所の所領を載せる。その内訳は、(1)私的な別相伝地14、(2)本所として一定の得分を収取する所領50、(3)進止(しんし)権を保留して有縁の寺社に寄進した所領5、(4)基本的な年貢収取権を寺社に寄進した所領4、(5)本所として荘務を進退する所領60、(6)在地領主を請所(うけしょ)として一定の得分権をもつ所領20からなる。なお(1)のうち7か所は鷹司家が近衛家から分立するに伴い、鷹司家領となっていく。その後、南北朝期に入り皇統の分裂は公家(くげ)の諸家にも大きく影響し、近衛家は家基(いえもと)後に家平(いえひら)流、経平(つねひら)流の2流が家門と家領の管領をめぐって対抗したが、家領総体の主要部分は経平流の基嗣(もとつぐ)へと伝領されたようである。基嗣は1336年(延元1・建武3)11月に北朝から摂津国榎並庄(えなみのしょう)以下25か所の所領の安堵(あんど)を受けている。ただしこれが当時の近衛家領のすべてであったともいいがたく、1478年(文明10)から1505年(永正2)にわたる『近衛家雑事要録』によれば、荘園(しょうえん)解体期においても、近衛家領は40か所に前後する当知行(とうちぎょう)所領を維持していたが、時期を逐(お)うにしたがいその衰退は覆うべくもなく、1524年(大永4)には不知行が当知行を数倍も上回る状況と化した。16世紀の後半、石高(こくだか)知行制が成立するや、近衛家も織田・豊臣(とよとみ)2氏から知行地を与えられ、江戸時代に入り1601年(慶長6)徳川氏より1795石余の知行を与えられた。その後2862石余に達し五摂家中最高の石高を保持した。[橋本政宣]

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世界大百科事典内の近衛家の言及

【穴太荘】より

…当初から摂関家領であったらしい。1253年(建長5)の近衛家所領目録によれば,近衛家自身が荘園支配の実際的な諸権限(荘務権)を握っていた。またその預所(あずかりしよ)は摂関家の随身下毛野氏で,同氏は代々近衛家を本所にあおぎながら,永らく荘を相伝知行した。…

【伊丹[市]】より

…1669年(寛文9)の伊丹郷絵図でも短冊形の町割りが認められる。豊臣領,幕府領をへて1661年伊丹村とほか10ヵ村1402石3斗が近衛家領となり,伊丹は部分的変動はあるがおおむね幕末まで近衛家領であった。1617年(元和3)駅所を公認され,また幕府領年貢米の蔵所として年貢米の集散地となり,すでにあった伊丹酒造の発展を原料,運送の面で助けた。…

【田仲荘】より

…11世紀の成立と推定される摂関家領荘園で,1110年(天永1)藤原忠実(ただざね)によって得分(とくぶん)の一部が日吉神社の法華八講料にあてられている。鎌倉時代には近衛家領となったが,近衛家は荘務権を有せず,領家職(りようけしき)は僧円基(近衛基通の子),僧慈禅(近衛兼経の弟)を経て,その法系である浄土寺門跡(もんぜき)が室町末期にいたるまで伝領した。12世紀後半の56年(保元1)以降,紀ノ川南岸の耕地をめぐって荒川荘との間に激しい堺相論が起こった。…

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