倉科郷(読み)くらしなごう

日本歴史地名大系 「倉科郷」の解説

倉科郷
くらしなごう

和名抄」高山寺本に「倉科」と記し、流布本ともに「久良之奈」と訓じているので「くらしな」と称したことは確実である。

「日本地理志料」に「按倉之言谷也、亦取地勢也」として地形から成立した言葉で、現在の更埴こうしよく市東方の倉科・清野きよのもり生萱いきがやの諸集落であろうとし、「大日本地名辞書」は「今倉科村、並びに森村なり、清野雨宮の南なる山間とす」と記している。「更級埴科地方誌」も、後者と同様の地域を比定して、後世これが倉科庄となったものであろうとする。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月の条に倉科庄の名がみえ、「九条城興寺領」となっている。いずれにせよ、現更埴市東方の山間の扇状地に倉科の地が古くからあって一村をなしていた(昭和三一年更埴市に合併)ので、この地が倉科郷の本郷であったことは疑いなく、これに並ぶ英多えた郷・屋代やしろ郷の位置から検討すると、旧森村もおそらく倉科郷に含まれていたと想定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報