信濃国(読み)シナノノクニ

デジタル大辞泉 「信濃国」の意味・読み・例文・類語

しなの‐の‐くに【信濃国】

信濃

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日本歴史地名大系 「信濃国」の解説

信濃国
しなののくに

信濃国の名は、「古事記」の「大国主神国譲り」のくだりに、建御名方神が追われて「科野国洲羽」の海に至ったとあるのを初見とする。古くは「科野国」と記されたが、和銅六年(七一三)の好字制によって「信濃国」と改められた。正倉院に収納されている天平一〇年(七三八)以降信濃から貢進された幾つかの庸調布の大部分にある国印はすべて「信濃」である。

しなの」の語については種々の説があるが、信濃国に多い更級さらしな埴科はにしな倉科くらしな穂科ほしな仁科にしな妻科つましな明科あかしな駄科だしな蓼科たてしななどの「級」あるいは「科」の付く地名のある場所は、丘陵地帯ないしは山麓地帯にあるのを共通点としているところから、段丘または崖錐地形に付けた名がしなで、全国的にもその例が多いので「しなの」と名付けられたとする説が有力である。賀茂真淵の「冠辞考」、鹿持雅澄の「万葉集古義」や吉沢好謙の「信濃地名考」もみな同様の見解をとる。なお「しなの」にあてる漢字は、「科野」「信濃」のほかに「信乃」も古くから用いられている(「扶桑略記」推古天皇一〇年四月八日条、「続日本紀」大宝二年(七〇二)三月二七日条、新抄格勅符第十巻抄)。

原始

信濃にはいつ頃から人類足跡を残すようになったのだろうか。先土器時代の遺跡としては、昭和二七年(一九五二)発見の諏訪すわ茶臼山ちやうすやま遺跡をはじめとして現在約二八〇ヵ所の遺跡がある。この時代を代表するものは刃器文化であるが、全国一といわれる和田わだ峠を中心とする黒曜石の大産地があり、この黒曜石が石器材料となった。またこれは縄文時代も、石鏃石槍石匙などの材料として半径二四〇キロの範囲で利用されているという。尖頭器文化の段階になると渋川しぶかわ(現茅野市)(現長野市)八島やしま(現諏訪市)男女倉おめぐら(現小県郡和田村)上の平うえのたいら(現諏訪市)馬場平ばばたいら(現南佐久郡川上村)横倉よこくら(現下水内郡栄村)などがあり、細石刃を骨角や木器に植えた組合せ具として使用した細石器文化を代表するものとしては、矢出川やでがわ遺跡(現南佐久郡南牧村)が知られている。なお北信濃の野尻のじりたてはな付近の沿岸湖底からはナウマン象大角鹿化石が側刃掻器とみられる石器とともに発見されている。

縄文時代の各期を通じて、信濃は全国で最も遺跡数が多い地域とされる。草創期の遺跡では岩陰や洞穴痕跡を残している遺跡が注目され、特に石小屋洞穴いしごやどうけつ(現須坂市)荷取洞穴につとりどうけつ(現上水内郡戸隠村)栃原洞穴とちばらどうけつ(現南佐久郡北相木村)などが知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「信濃国」の意味・わかりやすい解説

信濃国
しなののくに

現在の長野県にほぼ相当する古代から明治初年までの国。伊那(いな)、諏訪(すわ)、筑摩(つかま)(ちくま)、安曇(あずみ)、佐久(さく)、小県(ちいさがた)、埴科(はにしな)、更級(さらしな)、水内(みのち)、高井の10郡からなる。古くは科野(しなの)国と書き、713年(和銅6)の好字制で信濃国に改められた。「しなの」の語義には、科(しな)の木多産説(本居宣長(もとおりのりなが)ら)と山国で級坂(しなさか)(級は階・段丘の意)が多いゆえとする説(賀茂真淵(かもまぶち)ら)とがあり、後者が有力。

[古川貞雄]

古代

前方後円墳の波及などからみて、5世紀後半から6世紀、この地にいくつかの小国家が形成され、畿内(きない)政権に服していく。原初の信濃国は千曲(ちくま)川流域に成立し、他田(おさだ)氏、金刺(かなさし)氏が信濃国造(くにのみやつこ)になった。これが大伴氏、神(みわ)(諏訪)氏、安曇氏など他氏の政治圏を統合して信濃国ができあがったのは、ほぼ7世紀中葉。信濃国は当初、大和(やまと)政権の対蝦夷(えぞ)前線基地で、その幹線経路の東山道(とうさんどう)は美濃(みの)国から信濃坂(神坂(みさか)峠)を越え伊那谷を北上、原初は諏訪盆地から天坂(あまざか)(雨境(あまざかい)峠)越えで佐久へ出、碓氷(うすい)坂(入山峠)越えで上野(こうずけ)国府へ通じたが、律令(りつりょう)制完成期には伊那谷から松本平へ出、保福寺峠から小県・佐久を経て碓氷峠に至った。松本平から分岐して越後(えちご)国府へ通じる支路も開かれた。信濃国府は初め小県郡の現上田市域に置かれ、平安初期に筑摩郡の現松本市域に移る。国分寺は上田市域にあった。信濃国は全国屈指の牧場地帯で良馬を産し、信濃布(麻)やサケの製品、梓弓(あずさゆみ)なども貢納物として著名。社寺では、一時諏訪国を分立させたほどの勢力をもつ諏訪上下社や、善光寺、修験(しゅげん)道場戸隠(とがくし)山が知られた。

[古川貞雄]

中世

信濃国の荘園(しょうえん)は院政期に急増し、牧もあわせて100荘を上回るが、府中松本や善光寺の近辺など要地には国衙(こくが)領も広く存在した。これらを基盤に在庁官人化した武士勢力は、1180年(治承4)の木曽義仲(きそよしなか)挙兵に木曽党、佐久党をはじめ国中から結集した。義仲敗死後は源頼朝(よりとも)の知行(ちぎょう)国となり、国司に加賀美遠光(かがみとおみつ)、目代(もくだい)兼守護に実力者比企能員(ひきよしかず)が任ぜられた。頼朝死後は北条氏の守護領化が進み、武士団化した信濃一宮(いちのみや)諏訪上社も北条氏に臣従し、東信の滋野(しげの)三氏(禰津(ねつ)、望月(もちづき)、海野(うんの))、伊那の知久(ちく)氏、安曇の仁科氏らと神(みわ)党として連合した。北条氏滅亡後1335年(建武2)神党が中先代(なかせんだい)の乱を起こし、これを契機に南北朝の争乱が信濃を覆った。神党は宗良(むねなが)親王を推戴(すいたい)して南朝を支え、守護小笠原(おがさわら)氏や東北信の村上、高梨(たかなし)、大井、伴野(ともの)氏らは武家方(北朝)で戦った。室町幕府確立後は新たに、領国化を図る小笠原氏と国人(こくじん)領主との抗争が展開し、1400年(応永7)守護小笠原長秀を国一揆(くにいっき)が追い払う大塔(おおとう)合戦が起きた。15世紀なかばに小笠原政康が国中を平定したものの、以後小笠原氏は分裂、国人領主も離合集散して戦国争乱に突入、中南信の小笠原氏、東北信の村上氏らの戦国大名化の途上、武田信玄(しんげん)の侵攻を受け、川中島合戦のあと信濃一円が武田領国となった。中世を通じて善光寺信仰が広まり、禅宗・浄土真宗が普及して名だたる高僧が輩出した。

[古川貞雄]

近世

1582年(天正10)武田勝頼(かつより)、織田信長が相次いで滅びたあと、信濃国は上杉、徳川、北条3氏の抗争の場となったが、90年豊臣(とよとみ)政権が一国を支配した。関ヶ原の戦い後は関東の外延部として徳川政権の基盤に組み込まれ、徳川一門大名や幕府領が配置されるとともに、諸大名領は頻繁な転封のなかで譜代(ふだい)化、小藩化が進んだ。幕末期には松代(まつしろ)藩の10万石を筆頭に、飯山(いいやま)、須坂(すざか)、上田、小諸(こもろ)、岩村田、竜岡(たつおか)、松本、高島、高遠(たかとお)、飯田の11藩と他国藩領や旗本知行所が幕府領と入り組んでいた。信濃の近世を彩るのは、領主でなく、養蚕、蚕種はじめ特産諸営業と中馬(ちゅうま)、全国一の百姓一揆、俳諧(はいかい)、平田派国学や普及率最高の寺子屋など、一連の民衆の力量である。1871年(明治4)廃藩置県により長野県と筑摩(ちくま)県になり、76年長野県に統合された。

[古川貞雄]

『塚田正朋著『長野県の歴史』(1974・山川出版社)』


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百科事典マイペディア 「信濃国」の意味・わかりやすい解説

信濃国【しなののくに】

旧国名。信州とも。東山道の一国。現在の長野県。山間の地のわりに古くから開け,8世紀初めには岐蘇(きそ)路が開通。721年―731年の間,諏方(すわ)国を分置。《延喜式》に上国,10郡。中世には小笠原・村上・諏訪・木曾氏らが割拠したが,甲斐(かい)の武田氏と越後(えちご)の上杉氏の戦場となる。近世には小藩に分割。養蚕・製糸が発達。→川中島の戦善光寺上田藩松本藩
→関連項目太田荘小諸藩諏訪藩高遠藩中部地方長野[県]松代藩望月牧

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「信濃国」の意味・わかりやすい解説

信濃国
しなののくに

現在の長野県。東山道の一国。上国。『古事記』には科野国とみえる。埴科 (はにしな) ,更科 (さらしな) ,蓼科 (たでしな) など「科」の字のつく地名が多いことからも,「科木 (しなのき) 」を多く産する野を意味したのであろう。『古事記』『万葉集』『旧事本紀』には科野国造がみえ,それは小県 (ちいさがた) 郡 (現在の上田市一帯) 地方と思われるが,ほかにも古くから中心となる地域があった。すなわち『続日本紀』によれば,古来軍神の祭られた諏訪神社のある諏訪地方は養老5 (721) ~天平3 (731) 年諏方国として独立していた。その他,穂高神社を中心として海部 (あまべ) が進出したといわれる安曇 (あずみ) 地方 (現在の松本地方) がある。国府は初め上田市におかれたが,のちに松本市に移ったらしい。国分寺は小県郡におかれた。『延喜式』には伊那 (いな) ,諏方,筑摩 (つかま) ,安曇,更級,水内 (みのち) ,高井,埴科,小県,佐久の 10郡を,『和名抄』には郷 66,田3万 908町をあげている。また古代から天下の霊場として著名な善光寺 (長野市) の存在も軽視できない。平安時代後期以来,武士が各地に台頭したが,なかでも木曾の源義仲が有名。守護は鎌倉時代には比企氏から北条氏となり,室町時代には深志 (松本) に拠った甲斐源氏の小笠原氏が任じた。しかし諏訪地方では,諏訪神社の勢力が依然強く,その大祝 (おおはふり。神主) 家と称する諏訪氏の支配が鎌倉,室町時代を通じて戦国時代,武田信玄に敗れるまで続いた。戦国時代には甲斐の武田氏と越後の上杉氏との対抗の場となり,武田氏,織田氏の滅亡後は上杉氏,徳川氏の支配下におかれたが,この両氏の移封により信濃の旧武士はほとんど他国に去った。そのため江戸時代には天領,旗本領が多く,藩としては松代藩,松本藩,高島藩,高遠藩,飯田藩,須坂藩,飯山藩,上田藩その他があった。明治4 (1871) 年7月の廃藩置県でそれぞれ県となり,11月には長野県と筑摩県とに併合されたが,さらに 1876年に長野県に統一された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「信濃国」の解説

しなののくに【信濃国】

現在の長野県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の上田(うえだ)市におかれ、のち国府は松本市に移転した。古くは全国屈指の牧場地帯で良馬を産した。平安時代中期以降、武士団が多く発生し、末期には多くが源義仲(みなもとのよしなか)(木曽義仲)に服した。義仲の敗死後、源頼朝(よりとも)知行国(ちぎょうこく)となった。15世紀中ごろ小笠原(おがさわら)氏の支配が確立するが、戦国時代には武田(たけだ)氏の影響が強まり、武田信玄(しんげん)上杉謙信(うえすぎけんしん)川中島(かわなかじま)の戦い以後、信濃一円が武田領となった。関ヶ原の戦い後は徳川政権に組み込まれ、江戸時代は約半分が幕府直轄領、ほかに小藩が分立した。1871年(明治4)の廃藩置県により長野県、筑摩(ちくま)県が誕生したが、1876年(明治9)長野県に統合された。◇信州(しんしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「信濃国」の解説

信濃国
しなののくに

東山道の国。古くは科野国と記す。現在の長野県。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では伊那・諏方(すわ)・筑摩(つかま)・安曇(あずみ)・更級(さらしな)・水内(みのち)・高井・埴科(はにしな)・小県(ちいさがた)・佐久の10郡からなる。721~731年(養老5~天平3)諏方国が分置された。国府ははじめ小県郡(現,上田市),のち9世紀に筑摩郡(現,松本市)に移ったとみられる。国分寺・国分尼寺は小県郡におかれた。一宮は諏訪大社(現,茅野市・諏訪市・下諏訪町)。「和名抄」所載田数は3万908町余。「延喜式」の調庸は布で,中男作物として紙・紅花のほか,鮭・猪・雉の加工品類があり,薬品原料として胡桃(くるみ)・棗(なつめ)・梨子(なし)・大黄・石硫黄(いおう)などの貢進が定められていた。良馬の産地として御牧(みまき)が設定され,朝廷に貢馬をする駒牽(こまひき)の儀式が平安中期を中心に盛行した。また信濃布が特産として珍重された。鎌倉時代には北条氏の勢力が強く及び,南北朝期以降は守護小笠原氏や村上氏などの国人(こくじん)層が勢力を競ったが,一国規模の大名は現れず,戦国期には甲斐武田氏の領国となった。近世には11藩(のち10藩)があり,幕領・旗本領もあった。1869年(明治2)旧幕領と旧藩預地をあわせて伊那県とし,70年伊那県から中野県が分立。71年中野県は長野県と改称。また筑摩(ちくま)県ができた。76年筑摩県の一部と長野県が合併して長野県となる。

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世界大百科事典 第2版 「信濃国」の意味・わかりやすい解説

しなののくに【信濃国】

旧国名。信州。現在の長野県。
【古代】
 東山道に属する上国(《延喜式》)。はじめ科野国と記されたが,713年(和銅6)の好字制により信濃国とされた。原初の科野は千曲川流域地帯をさし,弥生時代後期には南の天竜川流域の文化圏と対比される独自の流域文化圏を形成していたらしい。古墳の築造は5世紀前後に始まり,善光寺平の南半部に点在する前期(5世紀前後)の前方後円墳群,伊那谷南部の後期(6世紀前後)の前方後円墳群をはじめ,地域ごとに特色のある古墳群がみられ,古代豪族割拠のようすがうかがえる。

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