改訂新版 世界大百科事典 「偽学の禁」の意味・わかりやすい解説
偽学の禁 (ぎがくのきん)
中国南宋の慶元年間(1195-1200),朱熹(しゆき)(子)とその学派に加えられた弾圧事件。〈慶元の党禁〉ともいう。1194年(紹煕5,朱熹65歳),地方官から皇帝の政治顧問官に昇進した朱熹が,外戚(皇后の親族)の韓侂冑(かんたくちゆう)の専横を批判したのが事の起こりである。韓侂冑とその一派は,当時〈道学〉と呼ばれていた朱熹の新しい学問を〈偽学〉と貶称し,そのグループを〈偽党〉さらには〈逆党〉と呼んでそのブラック・リスト(偽学逆党籍)を作り,かれらの任官の道を閉ざし,その著述および六経・四書の流布を禁じた。朱熹斬るべしという声はあったものの,彼自身は免職で済んだが,彼の友人や同調者のなかには流刑に処せられる者があいつぎ,罪に問われる者59人に及んだ。朱熹はこの禁圧の吹き荒れるさなかに,〈道学〉の行末を案じつつ世を去るが(1200年,71歳),1202年,党禁がゆるめられて党人が復官し,09年には朱熹の名誉も回復された。
執筆者:三浦 国雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報