中国、南宋(なんそう)の思想家。いわゆる朱子学を築いた人。字(あざな)は元晦(げんかい)、または仲晦(ちゅうかい)。号は晦庵(かいあん)その他。文公と諡(おくりな)され、朱子はその尊称である。
[大島 晃 2016年2月17日]
本貫は徽州(きしゅう)婺源(ぶげん)(江西省)の人(なお、徽州は新安の改称であることから、自らは多く新安の人と名のった)。福建省山間部の尤渓(ゆうけい)で生まれ、その生涯のほとんどを、建甌(けんおう)、建陽、崇安(すうあん)といった閩(びん)(福建省)北の地で送った。中原(ちゅうげん)の文化からは遠く隔てられた僻遠(へきえん)の地ともいえる片田舎(かたいなか)で生まれ育ったことになる。
14歳のときに、中級官吏であった父朱松(しゅしょう)(1097―1143)は病死したが、その後、崇安の胡籍渓(こせきけい)、劉白水(りゅうはくすい)、劉屏山(りゅうへいざん)(子翬(しき)、1101―1147)(建安の三先生とよばれる)に師事し、母を奉じて勉学に励んだ。初年は儒教的教養を受けつつも老荘仏教に興味を寄せた。19歳、科挙に及第し、24歳で任官して福建省の同安県主簿(しゅぼ)(帳簿処理官)を4年間務めた。おりしも、程頤(ていい)(伊川(いせん))の学統を継ぐ李侗(りとう)(延平、1093―1163)と出会いこれに師事し、しだいに儒教に傾斜していき、新儒学の精髄を開示された。
[大島 晃 2016年2月17日]
28歳で職を退き、その後20年余、官職につくことがなく、国家から年金をもらって家居生活を送り、学問著述に専念した。この間、李侗を失ってのち、張栻(ちょうしょく)(南軒(なんけん))、呂祖謙(りょそけん)(東莱(とうらい))との交流が始まり、朱熹の思想形成に多大の影響を与えたが、だいたい40歳のころにその思想の大綱が確立したと思われる。46歳のとき、呂祖謙とともに『近思録』を編纂(へんさん)し、北宋(ほくそう)の道学者、周敦頤(しゅうとんい)(濂渓(れんけい))、程顥(ていこう)(明道)、程頤、張載(横渠(おうきょ))の言論622条を門目別に14巻に分かち、一書にまとめた。朱熹の学問は、この4人を中心に北宋の新しい学風を受けて集大成したものであるが、程朱学と連称されるように、二程とりわけ程頤の学説を継承展開させており、その意味でこの書は朱子学の入門の書ということができる。またこの年、呂祖謙の提唱で、当時の思想界の一方の雄であった陸九淵(りくきゅうえん)(象山(しょうざん))兄弟と「鵝湖(がこ)の会」と称される会見を行った。こののちも陸九淵は彼の好敵手となり、功利学派の陳亮(ちんりょう)(龍川)と並んで、朱熹がもっとも力を込めて論陣を張る相手となり、逆にそれを通じて彼の思想はいっそう純化成熟していった。
そしてこの20年間に多数の著作に着手した。すなわち『周易(しゅうえき)本義』『詩集伝』『四書集註(ししょしっちゅう)』『四書或問(わくもん)』といった経典解釈、『太極(たいきょく)図説解』『通書解』『西銘解』『謝上蔡語録(しゃじょうさいごろく)』『延平答問』『程氏遺書・外書』など北宋以来の先学の著作の校訂編纂、かかる先学の伝記を集めた『伊洛淵源(いらくえんげん)録』や『名臣言行録』、さらに王朝の正統性を問題にした『資治通鑑(しじつがん)綱目』など、これらの著作の定本や稿本がつくられた。
このうち、着目すべきは『四書集註』で、死の直前まで『集註』には手を加えたという。朱熹が『大学』『中庸(ちゅうよう)』を表彰し『論語』『孟子(もうし)』とともに「四書」として五経の入門、階梯(かいてい)の書と位置づけたのは、思想的に有機的な関連性を考えてのことである。すなわち、一つは儒教の道の正統なる伝統を認めてそれをふたたび継承せんとする道統論のうえから、一つは「聖人学んで至る可(べ)し」という宋学の根本観念のもと道の把握に向けて学問の目的とその次第が明確に示されているという点からである。それは漢唐の訓詁(くんこ)学的経学(けいがく)とは違って、経書を通じて統一的思想を学び、その真義を体して己の人格の完成を図り、儒学の理想とする修己治人の道を実現しようという新儒学の樹立を意味する。
49歳江西省の南康軍(なんこうぐん)知事(2年)、ついで浙江(せっこう)省で飢饉(ききん)対策の任にあたり(1年)、61歳福建省漳州(しょうしゅう)知事(1年)、65歳湖南省潭州(たんしゅう)知事兼荊湖(けいこ)南路安撫使(あんぶし)(3か月)を歴任、最後に中央に召され煥章閣(かんしょうかく)待制兼侍講(じこう)(天子の顧問官)となるが、時の宰相の韓侂冑(かんたくちゅう)と衝突し、わずか45日で辞任する。その後、韓侂冑一派が政権を掌握するのに伴い、朱熹は官吏としての資格を剥奪(はくだつ)され、その学は偽学として弾圧を受けたが、屈せず、講学と著述のうちにその生涯を終えた。
後半期の著作には『易学啓蒙(けいもう)』『孝経刊誤』『小学』『楚辞(そじ)集註』『韓文(かんぶん)考異』『儀礼経伝通解』などがある。また没後、『朱文公文集』『朱子語類』が編纂されたが、『四書集註』と並んで朱熹および朱子学研究の必須(ひっす)の資料である。
上述のように、官吏として現職にある期間は短く(約10年間)、その大部分は地方官であったが、職務にも精励し、社倉法など優れた治績も残している。その一生はいわば学者と官僚との交錯であるが、社会的には当時の学者に多くの刺激を与えた。
[大島 晃 2016年2月17日]
朱熹の哲学は理気哲学といわれるが、形而下(けいじか)の気に対して形而上の理をたて、理と気の関係を明確にし、生成論・存在論から心性論・修養論にわたって、理気によって一貫した理論体系を完成した。その学問修養法は、人間が本来有しているものを回復するという形をとり、そのための工夫・努力が「居敬窮理(きょけいきゅうり)」である。両者は相互に補完しあうものだが、「居敬」とは心を情欲に妨害されぬようにし、妄思妄動をなくすこと、「窮理」(格物致知(かくぶつちち))は事事物物についてそれに内在する理を窮めていくことで、その努力を積み重ねてすべての理に通暁(つうぎょう)し、根源の一理の把握を目ざすものである。朱熹の考える事物の範囲はたいへん広く、いわゆる自然学の分野にまで及んでいる。それはあくまで道徳的規範の普遍妥当性の根拠を追究するものであったが、一気・陰陽・五行の生成論的な連関で万物の生成存在を統一的に把握しようとしたことと相まって、天文学をはじめ中国の自然学の展開のなかでも多大の貢献をし影響を与えた。近年その面に関する研究も行われ始めている。
[大島 晃 2016年2月17日]
『荒木見悟編『世界の名著19 朱子・王陽明』(1978・中央公論社)』▽『三浦国雄著『人類の知的遺産19 朱子』(1979・講談社)』▽『山田慶児著『朱子の自然学』(1978・岩波書店)』
中国,南宋時代の思想家。いわゆる朱子学の大成者。朱子はその尊称。字は元晦(げんかい)(のちに仲晦),号は晦庵,晦翁,遯翁(とんおう)その他。建炎4年(1130),福建省南剣州尤渓(ゆうけい)に生まれる。父は朱松,母は祝氏。これよりのち,生涯の大部分をこの閩(びん)(福建省の古称)の地で送ることになる。建炎4年といえば,建炎元年に即位した南宋初代の天子,高宗が金軍に追われて諸方を転々としていたころであって,臨安(浙江省杭州,南宋の首都)にたどり着いたのは翌々年のことである。
幼年時代には父から道学と古典を教わる。この詩人肌の父は熱烈な民族主義者で,金との抗戦を主張したが,和平路線を歩む当時の国策と合わず,野に下って失意の日々を送っていた。朱熹14歳のとき,父は没するが,その遺託により胡籍渓,劉白水,劉屛山の3人に師事する。このころは朱熹の魂の彷徨期で,のちにはあれほど攻撃した禅にひかれて参禅したこともあった。19歳のとき,科挙に合格。成績は330人中の278番である。
24歳になって,泉州同安県の主簿(帳簿主任)を拝命し,長い官僚生活の第一歩を踏み出した。この同安県への赴任の途中,朱熹の生涯の師,李侗(とう)(延平)と出会い,それより10年にわたる師事を通して,道学に目を開かれ,当時の多くの知識人を吸引していた禅と決別する。34歳のとき,李延平の死ときびすを接して,湖南学派の俊才張栻(ちようしよく)(1133-80)(南軒)と知りあい,彼から心のはたらきとその修養法について大きな影響を受ける。そしてついに40歳のとき,いわゆる朱子学の大綱を確立するのである。この40歳が朱熹の思想的生涯の分水嶺であって,それ以前が形成期,それ以降が自己の獲得したものを表出していった時期,より正確にいえば,政治的行動と著作活動と門人たちの教育といった社会的実践を通して,自己の思想を社会に還元しながらそれを検証していった時期,とみなしうる。仏教でいう〈往相〉(さとりへの道)と〈還(げん)相〉(衆生(しゆじよう)救済への道)という語が想起される。
同安県には28歳まで勤務したが,29歳から49歳に至る20年間は出仕せず,もっぱら家にあって思索と著述に専念する。このあと,南康軍(江西省星子県)知事(50~52歳),浙東(ほぼ浙江省の銭塘江以南の地方)の財政責任者(52~53歳),漳州(福建省漳州)知事(61~62歳),潭(たん)州(湖南省長沙)知事(65歳)といった地方官を歴任し,民生の安定と教化に尽力した。彼の地方行政は学者の観念論の域をはるかに超えた,きわめて現実的かつ綿密なものであった。なかでも社倉法(飢饉に備えた穀物の貯蔵と貸与に関するとりきめ)と経界法(一種の農地改革)とは,のちの朝鮮や日本にも影響を与えた,特筆されるべき政策である。
65歳のとき,皇帝のお声がかりで長沙から首都臨安に呼ばれ,皇帝の政治顧問官に栄進する。しかし,朱熹のあたりをはばからぬ直言が韓侂冑(かんたくちゆう)の怒りを買い,その一派の策動により,わずか45日で内任(中央官)を解かれ,帰郷を余儀なくされるのである。のみならずこれ以来,朱熹の学問は〈偽学〉の烙印(らくいん)を押され,〈偽徒〉と呼ばれた彼の同志や門人たちは,あるいは流刑の憂目にあい,あるいは任官の道を閉ざされた。世にいう〈慶元偽学の禁〉である。こうした大弾圧のさなかにあっても朱熹は講学をやめず,ユーモアさえ失わなかった。〈老去光華姦党籍〉(ブラックリストにわが名が載ったのは老年の光栄)というのは,そのころの彼の詩の一節である。彼が門生たちにみとられ,福建省建陽の考亭(朱熹が建てた学舎)で病没したのは,偽学の禁がまだ解けない,慶元6年(71歳)のことである。その門生たちに与えた最後の言葉は,〈あいともに堅苦の工夫(修業)をせよ〉であったという。著書には《四書集注(しつちゆう)》《近思録》《名臣言行録》《小学》《詩集伝》《周易本義》《儀礼(ぎらい)経伝通解》などがあるほか,詩や手紙などを収めた《朱文公文集》や,弟子との問答録《朱子語類》が伝わる。
執筆者:三浦 国雄
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1130~1200
南宋の学者。婺源(ぶげん)県(江西省)が本籍だが,生まれ育ったのは,尤渓(ゆうけい)県(福建省)。宋学の大成者。朱子は尊称。彼の哲学(理気説)は,宇宙本体たる太極(たいきょく)(理)が実在して理・気となるという二元的存在論に立ち,これを道徳原理に応用して性即理(人欲を去って天理を尽くす)の修養を説いた。その学問方法として格物致知(かくぶつちち)なる主知主義を唱えた。従来の聖典たる五経の上に四書を置き,実践的には名分節義を主張した。『通鑑綱目』(つがんこうもく)を著し,君臣父子の道徳を絶対視して宋の絶対君主制を支えた。朱子学は周敦頤(しゅうとんい),程頤(ていい),程顥(ていこう)の学派と欧陽脩(おうようしゅう)ら歴史学派を総合して宋学を集大成したもので,元朝以後,官学に採用され,中国,朝鮮王朝,日本の国家理念に影響した。
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…かの杞憂(きゆう)の話(《列子》天瑞篇)はこの気一元論の展開である。 このような気一元論を根底にすえ,《淮南子》的生成論,渾天説的構造論,さらに邵雍(しようよう)(康節)的終末論(天地崩壊論)を統一したのが宋の張載―朱熹(しゆき)(朱子)であった。彼らの壮大でダイナミックな宇宙論は,前近代における中国的宇宙論のクライマックスといっても過言ではない。…
…売卜は賤業とみなされていたが,れっきとした官僚でも進退きわまったときにはしばしば筮竹を握った。南宋の朱熹が政敵の弾劾文を上奏しようとした際,その可否を卜して〈遯(とん),家人に之(ゆ)く〉の占いに遭い,やむなく断念してその草稿を焼き,それ以後〈遯翁(とんおう)〉(遯は隠遁の意)と号したというのは有名な逸話である。 卜筮者は歴代,太卜という下位ながら官僚組織のなかに組みこまれたが,中国では天文学者も太史局,司天台,欽天監(きんてんかん)などと呼ばれる官僚組織の一員であり,彼は同時に占星術師であった。…
…ちなみに,《易》の英訳名は《Book of Changes》である。《易経》が成立し,その注解(十翼という)が書かれて以後,易は哲学的思弁の対象となり,中国のみならず東アジアの思想史に刺激を与え続けたが,南宋の朱熹が喝破したように《易》は本来卜筮の書なのである。次に占筮の実践方法を具体的に述べてみよう。…
…この時代にはまた一方で,象数易の再生を企てた邵雍(しようよう)(康節)が現れたことも看過できない。南宋の朱熹(子)は《周易本義》を著し,《易》は卜筮(ぼくぜい)の書にほかならぬと主張した。彼によれば,占者の問いに応じて《易》から投げ返された卦爻辞は,答えであると同時に占者に対する新たな問いであり,それによって占者は,自分がその辞にふさわしい人間かどうか内省を迫られるというのである。…
…記号はのちに〈工尺譜〉として知られる〈合,四,一,上,勾,尺,工,凡,六,五〉の文字を用いるものと,さらにそれを簡略化した〈,,一,,,,,,,〉などの記号を用いるものとがある。これらの俗字譜は,南宋に至って,朱熹(しゆき)(朱子)も言及しており,簡略化した文字譜の代表的な用例としては,張炎の《詞源》(1248),姜夔(きようき)の《白石道人歌曲》(1202),陳元靚(ちんげんせい)編《事林広記》(1269)などがあるが,記号は人によって多少の相違がある。しかしこの宋代の俗字譜は一般化せず,その後はあまり利用されなくなった。…
…程頤(ていい)(伊川)は窮理と格物を結びつけ,一事一物の理を窮めてゆけば,やがて〈脱然貫通〉するに至ると述べた。彼を継承した南宋の朱熹(しゆき)は,《大学》にはほんらい格物致知の解説があったはずだと考え,自己の意をもって《格物補伝》を補った。彼によれば,格は〈至る〉,物は〈事〉と同義,致知は,既知の知識を土台にして窮極のところまで推し窮めてゆくこと,とされる。…
…中国南宋の慶元年間(1195‐1200),朱熹(しゆき)(子)とその学派に加えられた弾圧事件。〈慶元の党禁〉ともいう。…
…患難相恤(あわれ)む〉を四大綱領とし,〈呂氏郷約〉または〈藍田郷約〉とよばれた。その後,南宋の朱熹がこれを補訂して〈朱子増損呂氏郷約〉をつくり大いに普及した。郷約が最も盛んに行われたのは明の中期以後であり,当時解体化の傾向にあった郷村組織を再編成しようとする意味があったであろう。…
…中国,南宋の朱熹(しゆき)が友人の呂祖謙と共に編纂した,北宋の道学(宋代に起こった新儒教)者の選集。題名は《論語》子張篇,〈博く学んで篤(あつ)く志し,切に問いて近く思う〉にもとづく。…
…居敬,持敬,主敬などともいう。敬とは本来,天,神々,君,父母などに対する敬虔でうやうやしい気持,ないしは態度をいうが,朱熹(子)はこれを自己の自己に対する心のあり方に転化させ,自己変革の修養法として確立した。このような敬は,朱熹以前にすでに北宋の道学者によって提唱され,次のような定義が与えられている。…
…五代の南唐が開発してから上流の武夷山系の高級茶の集散地として名高く,とくに宋代建茶は皇室御用の高級品を意味した。南宋時代,この地出身の朱熹が官界からしりぞき学問を講ずるようになると道学のメッカとなり,朱,蔡,游,劉の四名家を中心に学者が輩出し,多くの書院が作られた。北西の崇安県麻沙鎮が当時出版文化の中心となったのもそれと関連する。…
…《論語》顔淵篇に〈子(し)曰(いわく),克己復礼を仁となす〉とあるのにもとづく。〈克己復礼〉は古い訓では,わが身をつつしんで礼をふみ行う,と訓(よ)むが,南宋の朱熹(しゆき)は,〈己〉を私欲(エゴイズム)とし〈礼〉を天理(本来的に人に備わる道徳性)が美的に分節されたものとし,私欲を克服して天理に復帰すること,と解釈する。このような禁欲主義は,清の学者や荻生徂徠などから批判された。…
…また,心学に関しては胡五峯(宏)が察識端倪(たんげい)説をとなえている。これは,心のなかの天理は心が動く已発(いはつ)の瞬間に出現するから,それを見きわめ拡充してゆくというダイナミックな修養法で,その弟子の張栻(ちようしよく)(南軒)に伝えられ,思想形成期の朱熹に大きな影響を与えた。この派の学者として,ほかに胡安国,胡致堂(寅(いん),五峯の兄)などが著名である。…
…儒家の経典として,注釈に,漢代,朝廷に斉・魯・韓の三学派,民間に毛氏学派があったが,完全に伝わっているのは,毛氏の解釈(いわゆる《毛詩》)に後漢の鄭玄(じようげん)の補注を加えた《毛伝鄭箋》だけである。唐までは,孔穎達(くようだつ)《毛詩正義》を含め,このテキストが使用されたが,宋の朱熹(子)は,各篇の成立事情に関する旧説をしりぞけ,詩そのものの内容に即して理解しようとして《詩集伝》を著した。最近は,フランスのグラネなど,民俗学的見方で解釈し直そうとする試みもなされている。…
…《論語集注》《孟子集注》《大学章句》《中庸章句》の4編より成る。南宋の朱熹(しゆき)がもっとも力を注いだ著述で,死の直前まで改稿の手を休めなかったといわれる。宋代の学者の注釈をふまえつつ,自己の世界観にもとづいて新たな解釈を加えており,注釈学と哲学とがみごとに融合している。…
…孟子によれば,人の身体に四つの手足があるように,心のなかにも惻隠(そくいん)(あわれみいたむ心),羞悪(しゆうお)(悪を恥じ憎む心),辞譲(譲りあう心),是非(よしあしを見わける心)の四つが本来的に備わっていて,これら四つの芽生え(四端)を,それぞれ仁,義,礼,智という完全な徳へとたいせつに育てあげねばならないという(《孟子》公孫丑上篇)。朱熹は仁義礼智を〈性〉(本性)とし,〈四端〉とはそれらが〈情〉として外に現れ出た〈緒〉(端緒,いとぐち)だと解釈する(《孟子集注(しつちゆう)》)。【三浦 国雄】。…
…朱子学の大成者朱熹(しゆき)が門人たちと交わした座談の記録集。1270年,黎靖徳(れいせいとく)が記録者別のノート(語録という)を項目別に再編成したもの。…
…中国,南宋の朱熹(子)が門人劉子澄らの協力を得て編んだ,少年のための修身作法の書。内・外の2篇に分けられ,内篇は〈立教〉〈明倫〉〈敬身〉〈稽古〉の4章,外篇は〈嘉言〉〈善行〉の2章より成る。…
… その後宋代になると,仁説は独自の哲学的展開をとげ,周敦頤(しゆうとんい)(濂渓)は宇宙論的に仁を解釈して,人類の最高規範とし,程顥(ていこう)(明道)は仁を人のうちにある〈天の元(げん)〉ととらえ,この〈元〉の生々流行を仁の本質とした。程頤(ていい)(伊川)は仁を〈理〉といい,〈公〉と説き,程頤の説をついだ朱熹(子)が〈仁は愛の理,心の徳である〉と定義づけたのは,愛を作用と見,仁を本体と見る立場に立っているからである。【安本 博】。…
…孟子の性善説では悪の起源を十分に説明することができない。そのため宋の朱熹(しゆき)(子)は孟子の性善説を継承しながらも,人の性を〈本然の性〉と〈気質の性〉とに分けて,この難点を解決しようとしたのである。性悪説【日原 利国】。…
…中国思想史上の学説。北宋の程頤(ていい)(伊川)によって提唱され,南宋の朱熹(しゆき)(子)によって発展させられたテーゼ。程伊川と同時代の張載(横渠(おうきよ))は〈心は性と情とを統括する〉と述べたが,伊川―朱子によれば,性(本性)は理であるのに対して情(感情,情欲としてあらわれる心の動き)は気であるとされる。…
…告子が人間の生への本能的な意欲を性としたのに対し,孟子は性善説をもって応酬し,儒教の性論の基礎を築いた。その後,荀子(じゆんし)の性悪説,漢の揚雄の善悪混淆説,唐の韓愈の性三品説などが現れたが,南宋の朱熹(しゆき)(子)は,性を〈本然の性〉と〈気質の性〉に分けることによってそれらの止揚をはかった。前者は理想態としての至善の性であり,後者は悪への可能性もはらむ現実態としての性であるが,後者から前者へ復帰することが人の歩むべき道とされた。…
…しかし宋学はこの哲学を,あくまでも政治・道徳の実践の原理たらしめようとしたのであって,禅宗が出家超俗を理想としたのとは,その立場が本質的に異なっている。この宋学は南宋の朱熹(子)によって大成された。 朱子学を構成する個々の要素は,すでに北宋の宋学で準備されたものが多く,朱子の独創と見るべきものは少ないが,これらを論理的に整合し,一つの完結した哲学体系としたのは朱子の力である。…
…名門の家柄で,その父張浚(ちようしゆん)は宰相にのぼったのみならず,《紫巌(しがん)易伝》の作者としても著名。張栻は胡五峯(宏)に師事し,湖南学を授けられたが,31歳のとき朱熹(しゆき)(子)(当時34歳)と出会い,以後20年近い交友を通して,互いに大きな影響を与えあった。当時,朱熹,呂祖謙(東萊)とともに〈東南の三賢〉とたたえられたが,思想的円熟を待たず,50歳足らずで病没した。…
…全59巻。著者は南宋の朱熹(しゆき)(子)であるが,実際は朱熹の構想に基づいて門人の趙師淵が編纂したといわれる。綱(大綱)と目(細目)から成り,前者は《春秋》にならって毀誉褒貶(きよほうへん)の意を寓し,後者は《左氏伝》にならって事実を具体的に述べる。…
…中国,北宋時代の思想家程顥(ていこう)(明道)・程頤(ていい)(伊川)兄弟,すなわち二程子の全集。朱熹(しゆき)(子)が編纂した《程氏遺書》(二程の語録集),《外書》(語録補遺)に,《明道文集》《伊川文集》《伊川易伝》《経説》《粋言》を合刻して刊行したもの。明代以来,数種の刊本が出されたが,清の呂留良(晩村)のものが最良といわれる。…
…もと唐の李渤(りぼつ)の書斎であったが,北宋時代に書院に改変。その後荒廃するに任されていたのを,この地に地方官として赴任して来た南宋の朱熹(しゆき)が再建し,〈海内書院第一〉とうたわれた。朱熹がこの書院のために定めた〈白鹿洞書院掲示〉は,朱子学の教育理念の精髄として,後世の中国のみならず,朝鮮・日本にも大きな影響を与えた。…
…史上の人物としては晋の郭璞(かくはく)がこの道の開祖とされているが,とくに江西と福建地方に専家が多く,風水学の二大流派をなした。宋の理学者で福建出身の朱熹(しゆき)(子)も風水説を信じ,みずからその家の墓地を定めたと伝えられる。本来は占卜と同じ擬似科学であるが,地相や墓相の良否が一家の盛衰を左右すると説かれるため,既定の風水を破壊損傷されることを恐れ,鉄道,鉱山,運河などの工事に反対したり,または吉相の墓地を奪い合うなどの紛争が起こることもあった。…
…通礼,冠礼,昏(婚)礼,喪礼,祭礼の5章より成る。文公とは朱子学の大成者朱熹(しゆき)(子)のこと。《儀礼(ぎらい)経伝通解》が社会的,国家的規模における礼をあつかい,かつまた漢代以来の礼学の集大成を企図したものであるのに対し,《家礼》は文字どおり官僚・庶民の家庭的規模における礼の実践的細則を定める。…
…中国宋代の名臣とうたわれた人々の言行や逸話などを列伝風に記した書。朱熹(しゆき)(子)の著。〈五朝名臣言行録〉10巻(前集),〈三朝名臣言行録〉14巻(後集)の総称。…
…程頤は気の現象する世界の奥に,それを支え秩序づける存在を措定してこれを理と呼び,この理を究明すること(窮理(きゆうり))が学問の要諦(ようてい)だとした。彼はまだ理気の関係について精密な分析を加えなかったが,彼を継承した南宋の朱熹(しゆき)(子)は理と気の性格,およびその関係に思索をこらし,理気二元論哲学を大成した。 朱熹によれば,理は形而上のもの,気は形而下のものであってまったく別の二物であるが,理があれば気があり,気があれば理があって,たがいに単独で存在することができない。…
※「朱熹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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