韓侂冑(読み)かんたくちゅう(その他表記)Hán Tuō zhòu

改訂新版 世界大百科事典 「韓侂冑」の意味・わかりやすい解説

韓侂冑 (かんたくちゅう)
Hán Tuō zhòu
生没年:1152-1207

中国,南宋の政治家。字は節夫。安陽河南省安陽市)の人。北宋の名臣韓琦曾孫。母は高宗の皇后呉氏の妹,妻は呉皇后の姪。父の蔭によって仕官。1194年(紹熙5)退位していた孝宗が没したとき,光宗は病気で喪礼を行えず,ために宗室の趙汝愚らが光宗を退位させ皇子の拡(寧宗)を即位させようとし,宮廷の実力者憲聖太皇(呉皇后)の承諾を得るため韓侂冑に奔走させて寧宗が即位した。趙汝愚はこの功績に十分報いず,かえって朱熹らが韓侂冑を弾劾したので,讒言ざんげん)によって趙汝愚を追放し(1195),朱熹らを偽学の徒として追い出した(慶元党禁いわゆる偽学の禁である)。以後14年間権力を壟断(ろうだん)し,1205年(開禧1)平章軍国事となり,北方の金の衰運に乗じ,06年金を攻撃したが敗れ,和平交渉に入った。金は責任者の首級を求めてきたので,史弥遠と楊皇后らが謀って,入朝途上の韓侂冑を殺し,その一派を一掃し,08年(嘉定1)対金講和が成立した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「韓侂冑」の意味・わかりやすい解説

韓侂冑
かんたくちゅう
Han Tuozhou; Han T`o-chou

[生]?
[没]開禧3 (1207).杭州
中国,南宋の政治家。安陽(河南省)の人。字は節夫。北宋の名臣韓琦の曾孫。紹煕5(1194)年,憲聖太后(高宗の皇后)の縁続きとして寧宗の擁立に活躍。次いで宗室の右丞相趙汝愚に恨みをいだき,讒言してその地位から失脚させた。また朱熹の学派を偽学として官途につくのを禁じ(→慶元の党禁),小人腹心として政権をもっぱらにすること 14年に及び,太師平原郡王に昇進した。さらにが北方のモンゴル族に苦しめられているのに乗じ,中原を回復しようとはかり,開禧2(1206)年金との間に戦端を開いた。しかし宋軍は相次いで敗れ,金に和を求めたが,交渉は思うにまかせず,内外からその責任を追及され,勅命を受けて入朝の途上暗殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「韓侂冑」の意味・わかりやすい解説

韓侂冑
かんたくちゅう
(?―1207)

中国、南宋(なんそう)の政治家。安陽(河南省)の人。韓琦(かんき)(1008―75)の曽孫(そうそん)。第4代の寧宗(ねいそう)の擁立に功があり、その外戚として政界に登場した。右丞相(うじょうしょう)趙汝愚(ちょうじょぐ)(?―1196)と対立し、讒言(ざんげん)によってこれを地方に流した。趙汝愚の推薦する朱熹(しゅき)(朱子)が、韓侂冑の罪状を上奏したので、朱熹の学派を偽学として追放し、「慶元の党禁」を巻き起こした。以後14年にわたり、正義の士を退けて政権をほしいままにした。自己の権勢拡大のために中原(ちゅうげん)の地の回復を意図し、1206年金(きん)国討伐軍をおこして失敗、金(きん)に多額の歳幣(さいへい)を献ずることになった。その責任を問われて史弥遠(しびえん)に殺され、韓一派は政界から一掃され、首級は金に送られた。

[柳田節子]

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世界大百科事典(旧版)内の韓侂冑の言及

【偽学の禁】より

…〈慶元の党禁〉ともいう。1194年(紹熙5,朱熹65歳),地方官から皇帝の政治顧問官に昇進した朱熹が,外戚(皇后の親族)の韓侂冑(かんたくちゆう)の専横を批判したのが事の起こりである。韓侂冑とその一派は,当時〈道学〉と呼ばれていた朱熹の新しい学問を〈偽学〉と貶称し,そのグループを〈偽党〉さらには〈逆党〉と呼んでそのブラック・リスト(偽学逆党籍)を作り,かれらの任官の道を閉ざし,その著述および六経・四書の流布を禁じた。…

※「韓侂冑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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