コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

韓侂冑 かんたくちゅうHan Tuozhou; Han T`o-chou

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

韓侂冑
かんたくちゅう
Han Tuozhou; Han T`o-chou

[生]?
[没]開禧3 (1207).杭州
中国,南宋の政治家。安陽(河南省)の人。字は節夫。北宋の名臣韓琦の曾孫。紹煕5(1194)年,憲聖太后(高宗の皇后)の縁続きとして寧宗の擁立に活躍。次いで宗室の右丞相趙汝愚に恨みをいだき,讒言してその地位から失脚させた。また朱熹の学派を偽学として官途につくのを禁じ(→慶元の党禁),小人を腹心として政権をもっぱらにすること 14年に及び,太師平原郡王に昇進した。さらにが北方のモンゴル族に苦しめられているのに乗じ,中原を回復しようとはかり,開禧2(1206)年金との間に戦端を開いた。しかし宋軍は相次いで敗れ,金に和を求めたが,交渉は思うにまかせず,内外からその責任を追及され,勅命を受けて入朝の途上暗殺された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

かんたくちゅう【韓侂冑 Hán Tuō zhòu】

1152‐1207
中国,南宋の政治家。字は節夫。安陽(河南省安陽市)の人。北宋の名臣韓琦の曾孫。母は高宗の皇后呉氏の妹,妻は呉皇后の姪。父の蔭によって仕官。1194年(紹熙5)退位していた孝宗が没したとき,光宗は病気で喪礼を行えず,ために宗室の趙汝愚らが光宗を退位させ皇子の拡(寧宗)を即位させようとし,宮廷の実力者憲聖太皇(呉皇后)の承諾を得るため韓侂冑に奔走させて寧宗が即位した。趙汝愚はこの功績に十分報いず,かえって朱熹らが韓侂冑を弾劾したので,讒言(ざんげん)によって趙汝愚を追放し(1195),朱熹らを偽学の徒として追い出した(慶元党禁いわゆる偽学の禁である)。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


かんたくちゅう
(?―1207)

中国、南宋(なんそう)の政治家。安陽(河南省)の人。韓(かんき)(1008―75)の曽孫(そうそん)。第4代の寧宗(ねいそう)の擁立に功があり、その外戚として政界に登場した。右丞相(うじょうしょう)趙汝愚(ちょうじょぐ)(?―1196)と対立し、讒言(ざんげん)によってこれを地方に流した。趙汝愚の推薦する朱熹(しゅき)(朱子)が、韓冑の罪状を上奏したので、朱熹の学派を偽学として追放し、「慶元の党禁」を巻き起こした。以後14年にわたり、正義の士を退けて政権をほしいままにした。自己の権勢拡大のために中原(ちゅうげん)の地の回復を意図し、1206年金(きん)国討伐軍をおこして失敗、金(きん)に多額の歳幣(さいへい)を献ずることになった。その責任を問われて史弥遠(しびえん)に殺され、韓一派は政界から一掃され、首級は金に送られた。[柳田節子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の韓侂冑の言及

【偽学の禁】より

…〈慶元の党禁〉ともいう。1194年(紹熙5,朱熹65歳),地方官から皇帝の政治顧問官に昇進した朱熹が,外戚(皇后の親族)の韓侂冑(かんたくちゆう)の専横を批判したのが事の起こりである。韓侂冑とその一派は,当時〈道学〉と呼ばれていた朱熹の新しい学問を〈偽学〉と貶称し,そのグループを〈偽党〉さらには〈逆党〉と呼んでそのブラック・リスト(偽学逆党籍)を作り,かれらの任官の道を閉ざし,その著述および六経・四書の流布を禁じた。…

※「韓侂冑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

韓侂冑の関連キーワード周必大史弥遠楊万里史達祖真徳秀楼鑰

今日のキーワード

天網恢恢疎にして漏らさず

《「老子」73章から》天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android