児玉一造(読み)こだまいちぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「児玉一造」の意味・わかりやすい解説

児玉一造
こだまいちぞう
(1881―1930)

実業家彦根(ひこね)藩士、児玉貞次郎の長男。高等小学校卒業後、一時近江(おうみ)銀行に籍を置いたが、1898年(明治31)滋賀県商業学校に入学し、1900年卒業。同年三井物産の中国練習生募集に応じて入社した。厦門(アモイ)、台湾勤務を経て、05年にはロンドン支店に勤務、満州大豆の欧州向け輸出を成功させて名を知られた。12年帰国後に本社参与付、名古屋支店長、1914年(大正3)には綿花部長に昇進した。20年三井物産綿花部が独立し、東洋綿花(現トーメン)となった際、専務取締役就任し、26年には同社会長になった。かたわら三井物産、豊田紡織(現トヨタ紡織)などの取締役を歴任し、また内閣企画庁参与など関係した公職も多い。

[西村はつ]

『荻野仲之郎編・刊『児玉一造伝』(1934)』

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朝日日本歴史人物事典 「児玉一造」の解説

児玉一造

没年:昭和5.1.30(1930)
生年:明治14.3.20(1881)
明治大正期の実業家。滋賀県犬上郡彦根町生まれ。菓子商の丁稚,近江銀行勤務ののち滋賀県商業学校卒業。静岡商業学校助教諭,三井物産会社の支那修業生を経て明治34(1901)年同社に入り厦門,台湾,ハンブルク,ロンドンに派遣される。日露戦時には軍用米の売り込みに,欧州在任中には満州産大豆の対欧州輸出に成功。大正1(1912)年名古屋支店長,3年大阪支店棉花部長。以後棉花取引の分野で著名となる。9年棉花部を独立させ東洋棉花株式会社を創立し,同年中に専務取締役に就任。10年三井合名会社より重役待遇を受ける。13年三井物産取締役,昭和2(1927)年東洋棉花会長。大正9年恐慌期には綿糸布輸出,シンジケート(輸出綿糸組合)の結成などを推進して綿業界の再建に尽力した。豊田紡織取締役,大阪市教化委員,資源審議会委員なども歴任。支那修業生時代に中国人の高齢者,青年,児童各々男女1名ずつ計6名を師に迎えて中国語を習得したという大変な努力家。<参考文献>荻野仲三郎編『児玉一造伝』

(阿部武司)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「児玉一造」の解説

児玉一造 こだま-いちぞう

1881-1930 明治-昭和時代前期の実業家。
明治14年3月20日生まれ。33年三井物産の清国(しんこく)修業生となる。38年ロンドン支店勤務となり,満州大豆のヨーロッパ輸出をはじめて成功させる。のち綿花部長。大正9年綿花部が東洋棉花(現トーメン)として独立後,専務,会長をつとめた。昭和5年1月30日死去。50歳。滋賀県出身。滋賀商業卒。

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