八上郡(読み)やかみぐん

日本歴史地名大系 「八上郡」の解説

八上郡
やかみぐん

因幡国中央部にあり、北は東から法美ほうみ邑美おうみ高草たかくさ気多けたの四郡、南は智頭ちず郡に接する。当初の郡域は現在の八頭やず郡家こおげ町・河原かわはら町・船岡ふなおか町・八東はつとう町・若桜わかさ町および鳥取市の一部に相当する。郡域の大部分を中国山地とその支脈が占め、南流する千代川と支流八東川の合流地点周辺に国中くになか平野が開け、両河川とその支流の形成する谷沿いに集落が点在する。平安時代末に東半の八東川・私都きさいち川流域が八東郡として分立し、中世以降の郡域は現在の河原町と郡家町船岡町の各西部および鳥取市の一部となった。縄文・弥生時代の遺跡はほとんどないが、国中平野周辺の山麓には古墳が多い。同平野南西山麓の河原町曳田ひけたには、「古事記」大国主神段の稲羽の素兎神話に表れる大国主神の妃「稲羽の八上比売」を祀る式内社売沼めぬま神社があり、この神話は当郡を本拠とする豪族の存在を反映したものと考えられる。

〔古代〕

和名抄」東急本国郡部では郡名に「夜加美」の訓を付す。年月日欠の山階寺僧正基童子貢進解断簡(正倉院文書)に「因幡国益上郡大江里」とみえ、「益上郡」とも記されたらしい。「続日本紀」宝亀五年(七七四)二月二三日条に、「八上郡員外少領従八位上国造宝頭」が因幡国造の姓を与えられたことがみえる。この賜姓に先立ち宝亀二年二月九日「高草采女従五位下国造浄成女等七人」が因幡国造の姓を与えられており(同書)、八上郡と高草郡に国造氏がいたことが知られ、両者は一族と考えられる。「万葉集」巻四相聞安貴王の歌一首の左注に安貴王が因幡の八上采女を娶ったが天皇の命で不敬の罪と定められ、采女は本国に送還されたことがみえる。八上采女は八上郡国造氏の子女であろう。また「尊卑分脈」は藤原氏京家の祖藤原麻呂の子浜成の母を「八上郡采女稲葉国造気豆之女」としている。八上郡国造氏は采女貢進を通じて中央貴族と関係をもっていたことが知られる。ほかに当郡内の有力豪族として赤染氏がおり、「続日本紀」宝亀八年四月一四日条によると、「八上郡人外従六位下赤染帯縄等十九人」が京・河内国・遠江国の赤染氏とともに常世連姓を与えられている。承和三年(八三六)には八上郡の人私部栗足女が二男二女の四つ子を出産して正税三〇〇束と乳母一人分の公料が養育料として与えられている(続日本後紀)

「和名抄」は若桜・丹比たじひ刑部おさかべ曰理わたり(東急本では日理)日部くさかべ私部きさいべ(高山寺本は和部)土師はじ大江おおえ散岐さぬき(高山寺本では散伎)佐井さい石田いわたひき(高山寺本にはない)の一二郷を載せ、因幡国七郡のなかでは最も多い。


八上郡
やかみぐん

〔中世〕

平安時代後期に丹比たじひ郡から分立した郡。延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)に初見。郡内に山城石清水いわしみず八幡宮領の田八町一反余があったが、延久の庄園整理の一環としてこの時同八幡宮の領有が停止されている。次いで大治二年(一一二七)から天承元年(一一三一)にかけて書写された、奈良県橿原かしはら市保寿院蔵大般若経の奥書に「河州丹南八上両郡境長和寺」とみえる(→丹南郡。また永治二年(一一四二)五月日付の伊賀黄滝寺西蓮勧進状案(東大寺蔵春華秋月抄草十四裏文書)に「河内国八神郡生人金剛仏子延増」が、黄滝おうりゆう(現三重県名張市の延寿院)に千日籠居、「草創五間四面梵宮之内」に五大明王を造立した話が載る。久安二年(一一四六)一〇月一七日の僧頼円田地売券(京都大学蔵古文書集)によれば、八上郡野遠のとお萩原はぎわら(現堺市)に所在する田地一反を、広階信時が鉄一二〇斤で買得しているが、この信時は、河内に散在していた有力鋳物師たちを糾合、蔵人所灯炉供御人(左方灯炉御作手)を建立、その惣官職に補任された広階忠光と縁ある者と考えられており、広階氏の本拠は野遠郷と推定されている(→丹南郡

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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