丹南郡(読み)たんなんぐん

日本歴史地名大系 「丹南郡」の解説

丹南郡
たんなんぐん

〔中世〕

平安時代後期に丹比たじひ郡から分立した郡。大治二年(一一二七)から天承元年(一一三一)にかけて書写された、奈良県橿原かしはら市保寿院蔵大般若経の奥書に「河州丹南八上両郡境長和寺」とあり、仁平四年(一一五四)の年紀を有する、藤井寺市の葛井ふじい寺旧蔵大般若経(村手重雄氏蔵)の奥書に、葛井寺の所在を記して「(ママ)南郡土師郷」とみえる(丹比郡の→土師郷。ほぼ同時期に分立したとみられる丹北郡と並んでみえるのは、承安二年(一一七二)三月一八日付の佐伯景弘持経者巻数注進状(高山寺聖教類紙背文書)(→丹比郡黒山郷、「丹南郡黒山長和寺」とある。この長和ちようわ寺は前出長和寺と同寺であろう。長和寺は現南河内美原みはら小寺こでらにあったと推定されている。前掲大般若経の奥書にみえる八上やかみ郡も丹比郡から分立した郡で、三郡分立後の丹南郡は丹比郡のほぼ南半を占めた。その範囲はおよそ、竹内街道を北限、西除にしよけ川を西限とするが、東は東除川の東岸を含み、一部で竹内街道の北部をも郡域とすると推定される。南限はほぼいまの南河内郡狭山さやま町と河内長野市の境界(狭山町の大野・草沢・半田の線)であろう。したがって北は丹北郡・志紀郡、東は古市郡・石川郡、南は錦部にしごり郡、西は八上郡および和泉国大鳥郡に接し、丹比郡一一郷(和名抄)のうち、黒山くろやま狭山さやま菅生すごう丹上たんじよう野中のなかの五郷を含んだと考えられる。ただし中世の丹南郡は上記の範囲に固定したものであったか否かは明らかでない。たとえば先に丹南郡とあった黒山(現美原町)が、永禄四年(一五六一)の八月二六日付三好義賢書状(日根文書)には「八上郡黒山」とある。郡域の確定は豊臣秀吉による天正・文禄検地以後ではなかろうか。近世の郡域は、現在の行政区画では、南河内郡狭山町の全域、同美原町の大部分、堺市・羽曳野はびきの市・藤井寺市・松原市の各一部にあたる。

中世の当郡には田井たい庄・菅生庄(現美原町)狭山庄(現狭山町)野田のだ庄・日置ひき庄・高松たかまつ(現堺市)岡村おかむら(現藤井寺市)などがあり、日置庄はいわゆる丹南鋳物師の集住するところであった(後述)。南北朝内乱期、当郡一帯もしばしば戦場となるが、正慶二年(一三三三)正月頃には丹南(近世の丹南村か。現松原市)に河内守護所が置かれていたようであり(楠木合戦注文)、延元二年(一三三七)頃には、河内守護細川顕氏の率いる北朝軍は野田庄に城郭を構え、池尻いけじり半田はんだ(現狭山町)辺りには陣営を構えていた。同年三月一〇日、顕氏軍は楠木一党と野中やちゆう(現羽曳野市)付近で戦い、敗れて藤井寺に逃れ、「藤井寺前大路」で顕氏弟帯刀直俊が戦死している(同年三月日「岸和田治氏軍忠状」和田文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報