八東郡(読み)はつとうぐん

日本歴史地名大系 「八東郡」の解説

八東郡
はつとうぐん

因幡国南東部にあり、北は法美ほうみ郡、西は八上やかみ郡・智頭ちず郡、南は播磨国、東は但馬国に接する。現在の八頭やず郡八東町・若桜わかさ町の全域、および同郡郡家こおげ町・船岡ふなおか町のそれぞれ東部に相当する。中国山地のうちの千代川支流の八東川および私都きさいち川の中・上流域にあたり、両河川およびその支流の形成する狭い谷間に集落が点在する。当初八上郡に属し平安時代末期に同郡から分立したと推測される。「和名抄」記載の八上郡一二郷のうち私部きさいべ刑部おさかべ曰理わたり日部くさかべ丹比たじひ若桜の六郷が当郡域に比定される。郡名は近世前期には「八束」と記されることも多い。

〔中世〕

弘安三年(一二八〇)七月六日の紀年をもつ光福こうふく寺旧蔵の太鼓(島根県玉湯町玉作湯神社蔵)の銘に「因州八東郡若桜郷西高野村」とみえるのが郡名の初見。鎌倉前期までに安井やすい保、南北朝期までに四部しぶ保・日野田ひのだ保、室町期までに小幡おばた郷などが成立した。「因幡民談記」所収の郡郷保庄記には若桜郷・富久保・小幡郷・丹比郷・草部くさかべ郷・富松郷富枝とみえだ郷・日野田郷・徳丸とくまる保・弥富里・安井保・加陽保・下野・上野・見槻中みづきなか村・日理ひずち保・西御門にしみかど社・私部きさいち郷・峯寺みねでら保・油別符・津黒つくろ保・花原はなばら保があげられ、庄園は含まれていない。当郡は文和元年(一三五二)以降因幡国を実質的に掌握した山名時氏の勢力下に入り、貞治三年(一三六四)以後守護山名氏支配下に属した。当郡内の有力在地領主には若桜郷に根拠をもつ矢部氏、日部郷の波多野氏、小幡郷の小畑(小治田)氏、私部郷の毛利(森)氏らがおり、それぞれ若桜鬼わかさおにヶ城(現若桜町)高平たかひら(現八東町)小畑おばた(現同上)・私部城(現郡家町)に拠ったという。矢部氏・小畑氏は貞和二年(一三四六)新興しんごう寺と青木実俊の紛争の際に幕府の使者として名がみえる(同年閏九月一七日「足利直義下知状案」新興寺文書)。私部郷の毛利(森)氏は文明年間(一四六九―八七)に勢力を増大し、同一一年守護山名豊時と戦って勝利したが、のち山名惣領家但馬山名氏の政豊の救援を受けた守護勢によって鎮圧された。長享元年(一四八七)頃毛利(森)氏は矢部氏などと協力して山名氏一族の山名孫次郎(政実)を擁して守護豊時に対し反乱を起こし、同二年には幕府から孫次郎は守護として認められたが、延徳元年(一四八九)再び前守護豊時に敗れ、私部城を出た孫次郎は矢部やべ館で矢部山城守らとともに自殺に追込まれた(「蔭涼軒日録」同年一一月二〇日条など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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