加藤嘉明(読み)カトウヨシアキ

デジタル大辞泉 「加藤嘉明」の意味・読み・例文・類語

かとう‐よしあき【加藤嘉明】

[1563~1631]安土桃山時代武将三河の人。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳しずがたけ七本槍の一。九州征伐小田原征伐文禄の役慶長の役従軍関ヶ原の戦いには東軍につき、松山、のち会津の領主となった。

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精選版 日本国語大辞典 「加藤嘉明」の意味・読み・例文・類語

かとう‐よしあき【加藤嘉明】

  1. 安土桃山・江戸初期の武将。豊臣秀吉に仕え、賤ケ岳(しずがたけ)七本槍の一人。三河国愛知県)の人。伊予国愛媛県)正木城主となり、文祿・慶長の役には水軍をひきいて活躍。関ケ原戦いでは徳川方につき、伊予松山城主、のち会津若松城主となる。永祿六~寛永八年(一五六三‐一六三一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「加藤嘉明」の意味・わかりやすい解説

加藤嘉明
かとうよしあき
(1562―1631)

安土(あづち)桃山時代・江戸初期の武将。会津40万石の領主。三河国(愛知県)に生まれる。初め茂勝、孫六、のち左馬助(さまのすけ)と称す。初め豊臣(とよとみ)秀吉につかえ、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに七本槍(やり)の一人として名をあげ、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では水軍の将として功績があった。秀吉の死後徳川家康に従い、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは家康側で活躍、戦後、伊予松山20万石を賜り、大坂の陣でも戦功をたてた。27年(寛永4)3月加恩20万石を賜り、会津40万石を領し若松城に入部した。ほかに三春(みはる)、二本松(にほんまつ)も加藤氏の一族で支配した。領内白河街道滝沢峠の開削(かいさく)を初めとする交通網の整備、若松城の普請などを手がけた。また茶道をよくし、京都桂(かつら)離宮の松琴亭(しょうきんてい)前に架けられた石橋を寄進するなど風流の道にも通じていた。寛永(かんえい)8年9月12日没した。

[誉田 宏]

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朝日日本歴史人物事典 「加藤嘉明」の解説

加藤嘉明

没年:寛永8.9.12(1631.10.7)
生年:永禄6(1563)
安土桃山・江戸時代前期の武将。近江水口藩(滋賀県水口町)加藤家の祖。初名茂勝,通称は孫六,左馬助。13歳で羽柴(豊臣)秀吉に仕え羽柴(豊臣)秀勝付き,次いで秀吉直属となる。天正11(1583)年の賤ケ岳の戦で七本槍のひとりとして功あり3000石を与えられ,翌年には淡路1万5000石志智城主となる。以後は船手の将として九州征討,小田原攻め,文禄・慶長の役に参加。この間の文禄4(1595)年,伊予松前6万石に転封。関ケ原の戦では東軍に属し,戦後伊予松前20万石となる。徳川政権下では江戸城,駿府城,篠山城,名古屋城などの修築を分担。慶長19(1614)年の大坂冬の陣では江戸城留守居となったが,翌年の夏の陣には自ら参陣。元和8(1622)年,徳川家光鎧着初の介添役を務め,翌年従四位下。寛永3(1626)年,徳川秀忠・家光の上洛に供奉,その際侍従に任ぜられた。翌年会津若松城主40万石に封ぜられたが,同8年江戸で病死。大正6(1917)年に至り贈従三位。

(二木謙一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「加藤嘉明」の意味・わかりやすい解説

加藤嘉明 (かとうよしあき)
生没年:1563-1631(永禄6-寛永8)

安土桃山・江戸初期の武将。初名茂勝,通称左馬助。三河の人で,豊臣秀吉に仕え,賤ヶ岳七本槍の一人。淡路に所領を持ち,のち伊予松前(まさき)城主として,文禄・慶長の役等に水軍の将として参加,功をあげ,1598年10万石に加増。関ヶ原の戦には東軍に属し,20万石となり同国松山城に移る。1627年,会津40万石に移封,若松城に住む。江戸で死亡。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加藤嘉明」の意味・わかりやすい解説

加藤嘉明
かとうよしあき

[生]永禄6(1563).三河,長良
[没]寛永8(1631).9.12. 江戸
安土桃山~江戸時代初期の武将。父は三之丞朝明。通称は孫六,左馬助。豊臣秀吉に仕え,戦いのたびに手柄を立てて,近江賤ヶ岳の戦いでは「七本槍」の一人に数えられた。小田原の役後,伊予正木 (松前) 城6万石に封じられた。文禄・慶長の役では水軍を指揮して奮戦し,4万石を加増。秀吉の死後は石田三成らと対立し,関ヶ原の戦いでは東軍に加担。功により 20万石に加増。慶長7 (1602) 年松山城築造に着手。寛永4 (27) 年には会津若松 40万石に移封。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「加藤嘉明」の解説

加藤嘉明
かとうよしあき

1563~1631.9.12

織豊期~江戸初期の武将・大名。孫六。左馬助・侍従。はじめ羽柴秀勝に仕え,1576年(天正4)播磨攻略時に豊臣秀吉の下に移り,各地に転戦。賤ケ岳(しずがたけ)七本槍の1人。85年以来船手となり,文禄の役では船奉行として進発したが,安骨浦の海戦で李舜臣(りしゅんしん)に敗れた。慶長の役では元均の艦隊を破った。95年(文禄4)伊予国松前(まさき)6万石。関ケ原の戦では東軍に属し,戦後,同国松山20万石。1627年(寛永4)陸奥国会津40万石に移された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤嘉明」の解説

加藤嘉明 かとう-よしあき

1563-1631 織豊-江戸時代前期の武将,大名。
永禄(えいろく)6年生まれ。豊臣秀吉につかえ,賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに七本槍のひとりとして活躍。小田原攻め,朝鮮出兵などに参加。関ケ原の戦いでは東軍に属し,戦後伊予(いよ)松山藩主となる。大坂の陣にも活躍し,寛永4年会津(あいづ)40万石に転封となった。寛永8年9月12日死去。69歳。三河(愛知県)出身。初名は茂勝。

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世界大百科事典(旧版)内の加藤嘉明の言及

【会津藩】より

…98年(慶長3)120万石で入部した上杉景勝は,関ヶ原の戦で石田三成と呼応したために減封されて米沢へ移され,そのあと再び蒲生氏が60万石で入封したが,忠郷に嗣子なく封を収められた。1627年(寛永4)伊予国松山より入部した加藤嘉明は40万石,その子明成のとき城の大修築が行われた。大土木工事による支出の増大を補うための年貢増徴に加え,農村を襲った寛永の大飢饉により農民の逃散が相つぎ,家臣堀主水との軋轢(あつれき)(会津騒動)もあり,43年明成は封を返還した。…

【加藤氏】より

…(1)伊勢国の中世武家。藤原利仁流の末裔景貞(清)が伊勢に下向,祖となったという。津市,鈴鹿市に景貞伝承の地がある。その子景員,孫景廉・光員は源頼朝挙兵に参加,その後,光員は頼朝側近として,また1185年(文治1)平家家人上総介忠清を志摩国で捕縛,没官領の注進など当国統治にも活躍,朝明郡豊田荘など数ヵ所の地頭職を得,左衛門尉,伊勢守に任官している。1206年(建永1)当時,彼は西面の武士として後鳥羽院と,道前(みちのさき)政所職(神宮領朝明郡,員弁郡,三重郡)として大神宮と関係するなど複雑な関係を持った人物であった。…

【松山[市]】より

…人口46万0968(1995)。中心市街地は近世初期,加藤嘉明が北部の分離丘陵勝山(132m)に居城を建設して松山と改称して以来,その城下町として発展した。愛媛県の発足(1873)によって松山は県庁所在都市となったが,第2次大戦前は人口10万人台で,産業も伊予絣(いよがすり)が特産であったにすぎない。…

※「加藤嘉明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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