安土(あづち)桃山時代・江戸初期の武将。会津40万石の領主。三河国(愛知県)に生まれる。初め茂勝、孫六、のち左馬助(さまのすけ)と称す。初め豊臣(とよとみ)秀吉につかえ、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに七本槍(やり)の一人として名をあげ、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では水軍の将として功績があった。秀吉の死後は徳川家康に従い、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは家康側で活躍、戦後、伊予松山20万石を賜り、大坂の陣でも戦功をたてた。27年(寛永4)3月加恩20万石を賜り、会津40万石を領し若松城に入部した。ほかに三春(みはる)、二本松(にほんまつ)も加藤氏の一族で支配した。領内白河街道滝沢峠の開削(かいさく)を初めとする交通網の整備、若松城の普請などを手がけた。また茶道をよくし、京都桂(かつら)離宮の松琴亭(しょうきんてい)前に架けられた石橋を寄進するなど風流の道にも通じていた。寛永(かんえい)8年9月12日没した。
[誉田 宏]
(二木謙一)
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安土桃山・江戸初期の武将。初名茂勝,通称左馬助。三河の人で,豊臣秀吉に仕え,賤ヶ岳七本槍の一人。淡路に所領を持ち,のち伊予松前(まさき)城主として,文禄・慶長の役等に水軍の将として参加,功をあげ,1598年10万石に加増。関ヶ原の戦には東軍に属し,20万石となり同国松山城に移る。1627年,会津40万石に移封,若松城に住む。江戸で死亡。
執筆者:加藤 真理子
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1563~1631.9.12
織豊期~江戸初期の武将・大名。孫六。左馬助・侍従。はじめ羽柴秀勝に仕え,1576年(天正4)播磨攻略時に豊臣秀吉の下に移り,各地に転戦。賤ケ岳(しずがたけ)七本槍の1人。85年以来船手となり,文禄の役では船奉行として進発したが,安骨浦の海戦で李舜臣(りしゅんしん)に敗れた。慶長の役では元均の艦隊を破った。95年(文禄4)伊予国松前(まさき)6万石。関ケ原の戦では東軍に属し,戦後,同国松山20万石。1627年(寛永4)陸奥国会津40万石に移された。
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…98年(慶長3)120万石で入部した上杉景勝は,関ヶ原の戦で石田三成と呼応したために減封されて米沢へ移され,そのあと再び蒲生氏が60万石で入封したが,忠郷に嗣子なく封を収められた。1627年(寛永4)伊予国松山より入部した加藤嘉明は40万石,その子明成のとき城の大修築が行われた。大土木工事による支出の増大を補うための年貢増徴に加え,農村を襲った寛永の大飢饉により農民の逃散が相つぎ,家臣堀主水との軋轢(あつれき)(会津騒動)もあり,43年明成は封を返還した。…
…(1)伊勢国の中世武家。藤原利仁流の末裔景貞(清)が伊勢に下向,祖となったという。津市,鈴鹿市に景貞伝承の地がある。その子景員,孫景廉・光員は源頼朝挙兵に参加,その後,光員は頼朝側近として,また1185年(文治1)平家家人上総介忠清を志摩国で捕縛,没官領の注進など当国統治にも活躍,朝明郡豊田荘など数ヵ所の地頭職を得,左衛門尉,伊勢守に任官している。1206年(建永1)当時,彼は西面の武士として後鳥羽院と,道前(みちのさき)政所職(神宮領朝明郡,員弁郡,三重郡)として大神宮と関係するなど複雑な関係を持った人物であった。…
…人口46万0968(1995)。中心市街地は近世初期,加藤嘉明が北部の分離丘陵勝山(132m)に居城を建設して松山と改称して以来,その城下町として発展した。愛媛県の発足(1873)によって松山は県庁所在都市となったが,第2次大戦前は人口10万人台で,産業も伊予絣(いよがすり)が特産であったにすぎない。…
※「加藤嘉明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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