八千草村(読み)やちくさむら

日本歴史地名大系 「八千草村」の解説

八千草村
やちくさむら

播磨国風土記」の神前かんざき多駝ただ里の条に八千軍やちくさ野とみえ、天日桙命が八千の軍勢を率いた野であるとする。いち川の支流平田ひらた川東岸の地で、現八千種やちくさが遺称地。中世には神東じんとう蔭山かげやま庄内一村。正和五年(一三一六)七月二七日の一音院領目録(九条家文書、以下特記しないものは同文書)に「蔭山庄内八千草村」とあり、年貢は仮令六千疋(六〇貫文)。一音院は最勝金剛さいしようこんごう(藤原忠通の妻が建立、現京都市東山区)内に九条道家が建立した寺院で、摂関家の子弟が入寺した。九条家領八千草村は彼杵そのぎ(現長崎市など)代りに一音院の仏寺用途に充てることになっていた。元亨三年(一三二三)に九条道教は一音院領蔭山庄内八千草村などを安堵しており(同年三月四日九条禅定殿下家御教書案)、応永三年(一三九六)四月日の九条経教遺誡では当村は無足田とともに一音院領として預け置かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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