八尋郷
やひろごう
現在の八尋を遺称地とし、同所を含む一帯に比定される中世の郷で、紀伊高野山金剛三昧院領粥田庄の内であった。永仁元年(一二九三)一一月日の粥田庄預所用米目録案(金剛三昧院文書/鎌倉遺文二四、以下断りのない限り同文書)に「八尋」とみえ、当地には預所給田一町五反があり、預所用米として六石九斗余が記載されている。同四年一〇月日の粥田庄給田目録案(鎌二五)によると、八尋には六町四反三〇〇歩の給田に六石一斗余の給米が設定されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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